竹島の近くを通る航路が記された江戸時代後期の地図(日本国際問題研究所提供)
竹島の近くを通る航路が記された江戸時代後期の地図(日本国際問題研究所提供)
航路図の一部。竹島(当時は松島と呼称)の付近に赤い線で航路が記されている
航路図の一部。竹島(当時は松島と呼称)の付近に赤い線で航路が記されている
竹島の近くを通る航路が記された江戸時代後期の地図(日本国際問題研究所提供)
航路図の一部。竹島(当時は松島と呼称)の付近に赤い線で航路が記されている

 日本国際問題研究所(東京都)が18日、竹島(島根県隠岐の島町)が記された1820~30年代ごろの公的地図の写本が見つかったと発表した。竹島が記された江戸時代の公的な地図は、1600年代の物しか知られていなかった。

 研究所に協力する形で調査し、東京都内の古書店で地図を入手した島根大の舩杉力修准教授によると、航路図は、密貿易を取り締まるために長崎奉行が作製したとみられ、縦約102センチ、横約137センチ。北海道から竹島(当時は松島)付近を経由して長崎に向かうルートなど、当時の商船の船頭に知られていた航路がまとめられている。

 図中の注意書きには、竹島の近くを通るルートは風や波の障害が少なく、利便性が良いことから昆布を運ぶ商船が使うようになったと書かれている。

 舩杉准教授は1696年に竹島に近い鬱陵島への渡航が江戸幕府に禁止されたことを念頭に「当時異国に近づくことは許されていなかった。(朝鮮領と認識していた)鬱陵島とは異なり、竹島は朝鮮領とは見なされていなかったと考えられる」と指摘した。

 (佐貫公哉)