震災遺構として整備された宮城県石巻市の大川小=2月
震災遺構として整備された宮城県石巻市の大川小=2月

 東日本大震災と東京電力福島第1原発事故から12年、再びこの日が巡ってきた。関連死も含め死者2万人近く、行方不明者も約2500人、避難者はいまだに3万人超。人間の力では制御不能な自然の猛威と、暴走する科学技術の怖さを如実に物語る。

 30年以内に南海トラフ巨大地震が発生する確率は70~80%、首都直下地震も70%と予測されており、列島に暮らす私たちにとって大地震は決してよそ事ではない。時間の経過とともに、薄らぎかねない記憶を日々学び直し、教訓を導き出し、次の世代に継承していくことが何よりも求められている。

 ところが、災禍の記憶を忘れたかのような出来事が二つあった。一つは原発の新規建設や60年超の稼働を容認する原子力政策の大転換だ。岸田文雄首相は「安定的なエネルギー供給と脱炭素化」を大義名分にするが、ウクライナ危機や夏冬の電力逼(ひっ)迫(ぱく)の恐れを持ち出し、高レベル放射性廃棄物(核のごみ)の最終処分場のメドも立たない中で、なし崩し的に原発依存にかじを切る手法を見過ごすわけにはいかない。

 過酷な事故の傷痕は、現在もくっきり残る。放射線量が高い帰還困難区域は、約337平方キロで名古屋市の広さに匹敵する。福島の約2万7千人が避難生活を送り、第1原発に近い浜通りの大熊、双葉2町の居住率はそれぞれ4%、1%。両町にまたがる中間貯蔵施設に搬入された除染作業による膨大な土などの最終処分場も決まっていない。

 なぜ国は震災直後から再生可能エネルギーへのシフトに本腰を入れなかったのか。2040年ごろまでに県内のエネルギー需要に対する再生可能エネルギーの導入を100%にするという野心的な目標を掲げている福島県とは対照的である。

 もう一つは、防衛費の大幅増の財源として、復興特別所得税の転用が突如浮上したことだ。37年までの復興税の課税期間を延長すれば、復興予算の総額は変わらないと、いくら理屈をこねても、それはつらい年月を強いられた被災地と向き合っているとは言い難く、「復興後回し」に映っても仕方あるまい。

 原発回帰の政策も含め、岸田政権に抜け落ちているのは、3・11の記憶と教訓を生かす姿勢、議論を尽くし、被災地や国民に説得力のある説明をしていく丁寧なプロセスではないか。

 人口減少や少子高齢化が他の地域よりも早く、先鋭的に現れた被災地。街の活性化へ課題は山積しているが、若い起業家たちの挑戦も始まっている。永住にこだわらず、短期間でも訪れる人たちを呼び込む、新型コロナウイルス禍もあり、変わりつつあるライフスタイルを踏まえた街づくり…。既成概念にとらわれない、柔軟な発想ができる若者の「力」を支援していけば、可能性は広がる。

 宮城県石巻市の海岸沿いにある震災遺構の門脇小学校には、こんな言葉が添えられていた。「日常は突然きえました。そしてたくさんの大切なものを失いました。けれども、それはどうして失わなければならなかったのか。それを問い続けていかなければなりません。いまを生きている私たちが、未来へ何を伝えたいかが大切なのです」

 未来の命を守るため、私たちは記憶の風化に徹底的にあらがいたい。それを誓う一日でもある。