この国の行政、それを担う官僚機構の信頼性が問われる局面である。行政文書の真偽を曖昧にしたまま、幕引きすることは許されない。
総務省は、放送法の「政治的公平」規定を巡り、安倍政権下の2015年に高市早苗総務相(当時)が解釈を事実上変更するまでの経過を記録した文書に関する調査結果を公表した。捏造(ねつぞう)とは考えていないとしつつ、「正確性は確認できなかった」と結論付けた。内容を否定しないことで組織としての自負を示す一方で、捏造と断じた高市氏の進退に発展するのを回避したかったのだろう。
しかし、官僚が作成した行政文書を「怪文書の類い」と切り捨てる高市氏の発言は尋常ではなく、看過するわけにいかない。かつての部下の仕事や公文書の信用をおとしめるもので、ありもしないことを創作したと主張するならば、それは組織のトップとして大きな責任を免れないはずだ。
高市氏の言い分にも疑問が残る。これほど重要な問題にもかかわらず、答弁する前夜まで知らされていなかったとすれば、由々しき事態だ。一晩で従来の解釈を変えることの重大さをその時に感じなかったのか。しかも当時の礒崎陽輔首相補佐官の〝介入〟も聞いていなかったとすれば、「閣僚失格」と評されても仕方あるまい。
高市氏が答弁で表明した新たな解釈についても、前夜に担当課から送られた案を時間をかけて調整した旨の説明を繰り返すが、実際の答弁は礒崎氏が総務省とつくったものとほぼ同じだった。何よりも礒崎氏が総務省とのやりとりや安倍晋三首相(当時)へのレクを認めており、文書には総務相にも報告するよう指示したとの記述もある。高市氏に関係する部分だけを捏造する理由は見いだしにくい。
辞任に追い込もうとする野党と高市氏の攻防ばかりに目を奪われがちだが、この問題の本質を忘れてはならない。文書には、担当でもない首相補佐官が「首が飛ぶぞ」などと総務官僚をどう喝しながら、解釈を強引に変えさせた様子が詳細に描かれているからだ。
政治的公平について、放送局の「番組全体を見て判断する」という解釈から「一つの番組のみでも極端な場合は(公平が)認められない」としたのは、いくら「解釈変更ではなく、補充的な説明」と強調しても説得力を欠く。国論を二分した安全保障法制の国会審議を前に、首相官邸が政権批判の報道を抑え込もうと、放送局への圧力、萎縮効果を狙ったとみられるのは当然ではないか。
こうした中で、総務省幹部の注目すべき発言があった。17日の参院外交防衛委員会で、極端な一つの番組も含めた番組全体で判断する、との見解を明らかにしたのである。15年の高市答弁とは異なり、解釈を修正したようにも映る。その場しのぎではないことを確認するためにも、岸田文雄首相や松本剛明総務相に対し、明確な答弁を求めるのが野党の役割だ。
今回の騒動により、官僚たちは、後に政治問題化するのを警戒して、記録を残すことに後ろ向きになりかねず、使命感にも影響を与える。信頼できるのは、現職閣僚なのか、それとも公文書や官僚機構なのか―。根幹が揺らいでいるのだから、行政府の長である岸田首相は白黒をはっきりさせる責務を負っている。