蛇胴を身に着けて動きを体験する舞姫社中のメンバー=浜田市黒川町、石央文化ホール
蛇胴を身に着けて動きを体験する舞姫社中のメンバー=浜田市黒川町、石央文化ホール

 石央文化ホール(浜田市黒川町)主催の女子神楽「舞姫社中」育成事業が始まり、最初の講義「石見神楽の歴史」を担当することになった。改めて現在の神楽の原風景を探る。

 もちろん通説はある。明治初年、神道国教化政策により神職の演舞が禁止されたので氏子(農民)の神楽演舞が始まり現在に至ったと説く。しかし、これでは石見神楽の神髄を求めて参加した22人の舞姫社中の皆さんは納得しないのではないだろうか。当時の氏子神楽の舞姿が見えてこないからだ。

 明治初年の農民神楽の情況を推察し得る資料がある。一つは1874年10月発刊の「浜田新聞」に神社の例祭の奉納神楽に「子供 狂言ノ真似(まね)方致(いた)サセ」たいと、子どもの親が浜田県庁に願い出たとある。

 いまひとつは同年12月発刊の同紙に、例祭に神官も「共ニ笛ヲ吹キ太皷ヲ打チ農民ト交リ通宵(一晩中)神楽舞ト唱フル狂言体ノ事」をしているとある。

 これらの記事から次の2点が推察し得る。

 すでに氏子舞が盛んで、一晩中上演している。その氏子神楽を「狂言体」と評している。子どもたちまでもその「狂言体」的神楽を楽しみ、自分たちも舞いたいということ。

 神楽上演の許可申請は県庁が担当している。上演時には観客が存在し、寄付・入場料などの収入があり課税対象になっていた。

 「狂言体」的神楽舞とはどんな舞姿なのか。「狂言」とは、「能」の上演の合間に演じる滑稽劇を指す。筆者は1957年、日原町(現島根県津和野町)の大庭良美さんに誘われて、当地方で最も古く、神職神楽を色濃く残しているという同町の柳神楽を見た。このたび、その柳神楽の古い台本が大庭さんの筆録で活字(日本庶民文化史料集成)になっていることを知り熟読した。

 その演目の中に「神」と「チャリ」が出て滑稽な会話する神楽が2本ある。チャリとは歌舞伎・浄瑠璃の道化役を指す。初期の氏子神楽を「狂言体」的と評したのはこの種の滑稽劇的演舞があったからであろう。氏子社中が神職神楽を見る人に分かりやすく面白く伝えようとして「狂言体」的表現をしたと推察する。

 見る人の前で演じる時、演者と観客との相互の交感・交流により演者の表現が敏感に反応する。その根底には自分の身体と言葉を素材にして表現する他者「人間・神・鬼」を見る人に感動をもって伝えたいという強烈な劇的欲求がある。

 観客の前で舞い始めてから氏子神楽は、神前で奏する舞楽であるとともに「時代と観客」に感応する演劇的側面を持って発展を遂げてきた。提灯(ちょうちん)蛇胴(じゃどう)を躍動させ、リコーダー式篠笛(しのぶえ)を吹き、花火をたき、ドライアイスの白煙の中から鬼が出現する。神への敬(けい)虔(けん)な祈りを込めて、「今を生きる人間」が舞う。時代と共に生き抜く石見神楽のエネルギーはその演劇的表現力にあることを初期の氏子神楽の歴史が教示している。

 (石見郷土研究懇話会会長)