島根県原爆被爆者協議会の会長を12年間務めた原美男さんが昨年11月亡くなった。95歳だった。被爆者の先頭に立ち、核による惨禍の記憶の継承活動に励み、中央の会合でも発信を続けた。原さんの経験や功績をしのび、思いを引き継いだ関係者のこれからの活動を見据える。
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1945年8月6日に広島に原爆が投下された数日後、18歳の原さんは工兵補充隊として現地入りし爆心地周辺で遺体を収容した。
母子の遺体を見つけた。母親が赤ん坊に覆いかぶさるような状態だった。親子が離れないようにそっと運んだ。「唯一、人間らしいことをした瞬間だった」。原さんは後に語り部として惨状を語る時、いつもこの話を持ち出した。
逆にそれほど人間味を失っていた。「兵士は機械になれ」と言われ、いつも気持ちを押し殺した。遺体の多くは暑さで腐敗。黒焦げになり内臓が飛び出たものもあった。1枚のトタン板に乗せ兵士4人で持ち上げて次々とトラックへ積み、穴を掘って一斉に焼いた。
そんな記憶は50年以上、心の奥底に押しとどめ、とつとつと語り始めたのは2000年ごろ。教員を退職してからだった。
長く県協議会副会長として原さんを支えた出雲地区原爆被爆者協議会長の山根義一さん(94)=出雲市今市町北本町2丁目=も教員経験者で、「いつも穏やかに、児童・生徒にも分かりやすいようにかみ砕いて語っていた」と、同じ教員目線で振り返る。
ともに被爆を経験し「互いを理解し合う良き友であり、同志のような存在だった」と懐かしんだ。
県協議会事務局長の堂前直行さん(71)=松江市袖師町=は10年に協議会に加入しサポートした。思い返すのは、日本原水爆被害者団体協議会など全国組織の会議で積極的に発言する原さんの姿。いつも将来を見据えていた。
「たとえ被爆者がいなくなっても、今の平和が戦争犠牲者の上に成り立っていることを伝え続けるため、次の世代に引き継がなければならない」。温和な原さんがその時は熱かった。
13年の県協議会発足50年に際しての記念誌発行、被爆2世の会の発足など残した功績は大きい。ただ高齢化や被爆者の減少は時を追うごとに進んだ。原爆の悲惨さや実態を伝える人が少なくなる現状を憂えた。
23年、県内で被爆者健康手帳を持つ人は539人で前年比73人減。平均年齢90・58歳。思いを伝えるために、原さんが検討し続けたのが、全国的にも事例が数少ない、被爆2世の県協議会長就任。最期の命の炎を燃やし、実現したのは亡くなる4カ月前だった。