戦時下に青春時代を過ごし、悲惨だった生活を振り返る布田一枝さん=7月、浜田市三隅町
戦時下に青春時代を過ごし、悲惨だった生活を振り返る布田一枝さん=7月、浜田市三隅町

 戦後78年、今年も終戦の日が近づく。戦争を経験した世代が少なくなる中、記憶の継承は大きな課題だ。戦時中に青春時代を過ごした浜田市の女性が当時の様子を語ってくれた。生理中はくしゃくしゃにした紙を当ててしのぎ、ミルクの代わりに米粉を・・・。戦地だけでなく、戦争は銃後の生活にも大きな影を落としていた。「二度と経験したくない」。女性の声を伝え、平和の尊さを考える。
(Sデジ編集部・鹿島波子)


 「少女期から青春時代はほとんど戦争中だった」と顔をゆがめ、悲痛な過去を思い返すのは浜田市三隅町子落(こおとし)地区出身の布田一枝さん(96)。三隅町のJR山陰線三保三隅駅のすぐ近くにある「ヘアサロンぬのだ」で、4年前まで現役理容師として働いていた。当時、三隅町役場で配給係を担い、18歳で迎えた終戦までの生活は、ひたすら我慢の日々だったという。

メモ書きを見ながら自身の戦時中の生活について話す布田一枝さん=7月、浜田市三隅町

 

▽純粋な小学生時代、千人針で「うらやましい」


 小学生のときは日中戦争が始まり、毎日、戦地に行く「兵隊さん宛て」に慰問文を書いていた。「一生懸命お国のために働いてください。私たちは武運長久を祈りながら銃後を守ります(私たちは出征した兵士がいつまでも無事であることを祈りながら、資源物資の供給を支えます)」―。

 学校が休み時間になると「千人針」が回ってきた。1メートルほどの長さの白布に、千人の女性が赤い糸で結び目を一目ずつ縫い「敵の銃弾から守るもの」として、兵士は身に付けて戦場へ向かったものだ。1人1針だが、特例として寅年生まれのみ、「虎は千里を行って千里帰る」という言い伝えにあやかり、自分の年齢だけ結び目を作ることができた。同級生の多くは寅年生まれだったが、布田さんは早生まれで卯年。純粋に「うらやましいなあ」と思いながら、友人が縫うのを見ていたという。

 戦時中、敵の国の言葉はもちろん厳禁。音楽の時間は「ドレミファソラシド」と歌うのは禁じられ、代わりに「ハニホヘトイロハ」と歌っていた。

<資料写真>1942年1月、太平洋戦争も始まって間もないころ、かっぽう着姿で銃を担いで行われた軍事教練の様子。学校でも地域でも派遣将校や国防婦人会などを中心に「銃後の守り」が強要され、竹やり戦闘訓練やバケツリレーの防火演習が盛んに行われた=東京(共同)

 

▽生理の時は紙、牛乳瓶のシールで“メイク”


 益田市の家政女学校に入学すると、太平洋戦争が始まった。勉強時間はわずか1、2時間程度。残りは出征兵士の留守宅や戦没者の遺族の家に行き、「勤労奉仕」として芋掘りや麦刈りなどを手伝った。女性とはいえ、いざという時のための訓練として竹やりで敵を突く練習や、防火訓練でバケツリレーを行ったりしていた。

 「兵隊さんへ送る」ため、国の命令で全員が米や芋、カボチャなどを提供しなければならず、少しの空き地も畑にして農作業に従事。鉄砲の弾になるからと鍋や釜、お寺の鐘まで金属類は全て回収された。戦後しばらくたって、兵士のいる戦地には食べ物は全く届いていなかった事実を知り「どっかでいっぱい余っとったんじゃろ」とむなしい気持ちだけが残った。

生理の時は、紙をぐちゃぐちゃに丸めて当てるように言われたと当時を振り返る布田さん=7月、浜田市三隅町

 一番困ったのは生理の時だ。今のようなナプキンはもちろん、布当てもなかった。男性の教頭先生が朝礼のとき、紙をぐちゃぐちゃに丸めて伸ばすことを繰り返すと軟らかくなるから「そうやって使いなさい」と指導した。必要な時は脱脂綿を切って紙に包み、挟んで使っていた。校内では使用済みの新聞紙が、よく廊下に落ちていた。「今じゃ考えられん時代」と苦しい学生生活を振り返る。

 年頃の年代でも、おしゃれはできない。頭には防空頭巾をかぶり、「パーマネントはやめましょう」と言われ、もんぺと下駄をはいた。桑の皮でできた制服は「着るとぺろぺろになっていた」。化粧品もない中、重宝したのは牛乳瓶。ふたのシール部分に付いた油を拭って顔につけ、肌を整えていたのがわずかばかりの“おしゃれ“であり、時代への抵抗の意味もあった。

<資料写真>1941年、厚生省が「婦人標準服」の試作品4種を発表した。戦時下の女性にふさわしい活動的で健康的な服装がうたい文句。防空用の「活動衣」(右端)は、空襲が激しくなるにつれ、和服と「もんぺ」を組み合わせた日常着となっていく=東京(共同)

 

▽17歳で配給係、ミルクの代わりは「米粉」


 17歳で女学校を卒業すると、周りの友人のほとんどが山口県光市にある軍需工場へ。だが布田さんは学業の成績が優秀だったことから、三隅町役場から直接声が掛かり、役場勤めになった。上司は戦地で負傷し、松葉杖になって戻った男性。だんだん戦争も激しくなり、職場の若い男性は皆出征し、年配の男性と女性が役場を支えていた。

 担当したのは配給係だ。出征などで人数も減り、大変な仕事だった。台帳を元に家族の人数によって米、みそ、しょうゆ、塩、衣類など配給する物資の切符を作り、各集落長宛てに送った。赤ちゃん用のミルクが足りないのは「一番困った」。どうしようもないので、米粉をすりつぶし鍋でどろどろに溶かして飲ませ、何とかしのいでもらったが、心苦しかった。

 暑い時は「暑い」が禁句、寒い時は「寒い」が禁句。全ては戦場で戦う兵隊さんのためだった。ラジオから流れるのは常に「勝利」のニュースで「勝つならば」と辛抱ができた。誰もが国を信頼し「日本が負ける」とは一人として思っていなかった。

 「一番堪えられん」のは、それでもお腹がすくこと。バレイショに塩をかけて食べていたときは「本当に嫌だった」。周りに太っている人は1人もいなかった。

<資料写真>1948年9月、東京・深川でコメの配給を受ける主婦の行列。戦時下の体制で始まった配給制度は戦後も続き、主食の不足分はイモ類や小麦粉を練った「すいとん」などで満たした。食糧以外の生活必需品も不足した(共同)

 

▽「飢え死にしていた」


 夜は空襲に備え、標的にならないよう、電気のカバーに黒い布をかぶせ、朝が来るのを待つ日々。広島で原爆が落ちた8月6日午前8時15分、いつも通り役場に向かって歩いていると、南東の空がいやに明るかった。出勤するとどうやら爆弾が落ちたらしい、それも普通の爆弾じゃない、という話になった。ただ、唯一の情報源のラジオでも、広島の状況はすぐには全く分からなかった。そして8月15日に終戦を迎えた。「これ以上戦争を続けていたら、皆飢え死にしていた」

 戦後78年を迎え、布田さんが大事にしている言葉がある。「良い戦争はありません。悪い平和もありません」。どんな理由があろうとも、関係の無い人たちにまで影響を与える戦いは決してあってはならない。しかし、世界では戦争はなくならなかった。ベトナム戦争やカンボジア内戦を新聞やテレビで見ては、モノのない時代を体験した一人として巻き込まれた市民を思い、昨年2月に始まったロシアのウクライナ侵攻にも心を痛め続けている。

昨年8月、布田さんは趣味の俳句でも、ウクライナ侵攻のニュースを見て一句読んだ

 現在の日本では、食べたいものは食べられるし、服も好きに着られる。「暮らしていけるだけのお金があれば十分。幸せな世の中です」。96歳まで生きて、平和な生活を経験できたからこそ、戦時中の生活は「二度と経験したくない」。平和を守ることが生きる者の使命だと思い、今を生きている。

 戦争体験として、記者自身も戦地や原爆での悲惨な話は耳にしてきたが、地元を守ってきた女性たちもつらく厳しい生活を送ってきたことが骨身に染みた。誰一人幸せを感じることができない戦争のむなしさを感じ、繰り返さないために、語り継ぐ必要性を改めて布田さんの言葉から強く感じた。

平和な暮らしに幸せを感じながら、戦時中を乗り越えて今年創業100年を迎えた理髪店「ヘアーサロンぬのだ」で、今も洗顔など勤めを続ける布田さん=7月、浜田市三隅町

 

◆布田さんが、知り合いの戦場体験をまとめた「一銭五厘の命」


 布田さんは終戦後、復員した隣の家に住んでいた故・牛山庄一さんから戦争体験を聞いた。牛山さんは理髪店に散髪に来る度、フィリピン・ミンダナオ島での経験を語っており、布田さんの夫・稔さんが、それを本にして残すよう薦めていた。1989年、牛山さんは自費出版で自身の戦中の4年間を記録した「一銭五厘の命」を書籍化した。布田さんは今でもその本を手元に置き、読み込んでは戦争の悲惨さを痛感している。その本の内容を布田さんが手書きにまとめ、語ってもらった。

 <布田さんが語った「一銭五厘の命」の動画>

 

 <布田さんが要約した「一銭五厘の命」>

布田さんが要約した「一銭五厘の命」(その1)
布田さんが要約した「一銭五厘の命」(その2)
布田さんが要約した「一銭五厘の命」(その3)
布田さんが要約した「一銭五厘の命」(その4)