78回目となる15日の終戦の日に合わせ、さまざまな状況や立場で戦禍を経験した人たちの証言を基に、戦争の記憶をたどる。
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20代の時期の多くを銃弾が飛び交う戦地で過ごし命懸けの行軍に費やしたことになる。島根県飯南町上来島の難波和夫さん(103)は1940年から6年半、旧陸軍・歩兵21連隊(通称・浜田連隊)に所属し中国や東南アジアを転戦した。30もの戦闘の最中に戦友の死もすぐ隣で目撃。「敵を殺さなければこっちが殺される。恐ろしい」
召集がかかったのは20歳の時。広島県呉市の海軍工廠(こうしょう)で働いていた。戦地の兵隊不足は深刻で、すぐさま出征を求められた。銃の扱い方もまともに教わらず、入隊から40日後、中国・江西省へ向かった。
「『歩兵』の名の通り歩くことばかり」と、とにかく歩を進める毎日だった。30キロの装備に11キロの軽機関銃を担ぎ、三角形の隊列を組んで移動。敵襲はいつも怖く銃撃が激しくなれば、ほふく前進でかわした。2週間で500キロ歩いた過酷な日々は今も夢に現れる。
▼遺骨を首にかけ
41年春、300メートル先の小高い山から狙われた。戦闘となり銃撃戦の中、突如、隣の仲間が静かになった。呼びかけても反応がない。頭を撃ち抜かれ脳みそが流れていた。「次は自分かも」。恐怖というよりむしろ、腹をくくった。
戦友の遺体は一部だけを切り取り、飯ごうを炊く火と一緒に焼いた。つらい作業だった。小さな白い遺骨をタオルに包み首にかけて持ち運ぶ。戦闘の合間の機を見て慰霊祭を開き供養した。これが何度もあった。
戦友の死に直面する一方で、自身は負傷すらせず生き延びた。運がいい人だと思われ、軍隊とかけて「運体(うんたい)さん」と呼ばれた。
最大の危機はあった。飛行場近くの戦闘の最中に突如、プロペラを止めた無音の敵機が頭上に現れ、至近距離であらん限りに銃撃した。戦友は頭や足を撃ち抜かれ次々と戦死した。「よくあそこで生きていたよなぁ」。今でも不思議だ。
▼書き写した記憶
敗戦は45年8月18日に知った。シンガポールで報を受けたと記憶する。既に広島や長崎に原爆が投下されたことは知っていた。「とうとう負けたか」。驚きはなかった。日本に戻れる喜びを感じつつ、工廠で働いた呉市や広島の様子が気がかりだった。
軍隊では長く兵士の働きぶりを記録する功績係を務め、手帳や書類に状況をまとめていたが、敗戦とともに軍の指示で焼いた。しかし、一つ一つの記憶は脳裏に焼き付き、帰国後に大学ノートに書き写した。
ノートを基にまとめた冊子は今も手元にある。出来事の数々は多量で生々しいが、一つの言葉に集約した。「戦争って怖いもんだよ」。言葉とともに、手に力がこもった。(原暁)