
千年前、浜田に和泉式部が来た?
平安時代中期の貴族社会を描いた大河ドラマ「光る君へ」に登場し、主人公・紫式部との関わりが注目される和泉式部は、生涯に2度結婚し、冷泉天皇の皇子兄弟と身分違いの関係を持った「恋多き女性」で知られる。彼女が子を産み、子を捨てたと伝わる場所が浜田市内の各所にある。生没年不明、愛した男性の数も不明な人生。関西から遠く離れた浜田での足跡をたどった。その信ぴょう性やいかに…。 (森みずき)
■浜田で息づく和泉式部
浜田市史下巻(1973年)などによると、和泉式部は父がいる大宰府(福岡県)に下る際、浜田に立ち寄り、産気づいたという。そのまま浜田で出産し、三隅町まで歩き、子を捨てたとされる。
浜田市内にある有名な伝承地は、産前に立ち寄った下府町の中村家に伝わる「腰掛け岩」だ。横幅2メートル近くある巨岩で、近くにほこらが建てられている。水神などとともに和泉式部もまつられ、毎年11月に祭りが行われているという。

中村家の腰掛け岩を身重のまま出発した和泉式部はその直後に出産。生湯町には、産湯に使ったとされる井戸があり、地名の由来になったという。


江戸時代後期、1816年の地誌には、和泉式部が生湯で詠んだ歌が記載されている。
『うき時は 思ひそ出る 石見潟 袂(たもと)の里の 人のつれなさ』
(訳:つらい時には 思い出さないでほしい 石見潟 あの場所に住む人は 冷淡だから)
「袂の里」は井戸が残る周辺を指す。産後間もない和泉式部は着物の袂(袖のあたり)に子を包み、歩いていたが、気にかける人がおらず、つらい思いをしたようだ。そこから山間部の小道を通り、休憩で腰掛けた岩、その伝説が名字の由来となった「石ケ休」(いしがやすみ)家につながる。

距離は30キロほど離れるが、浜田市三隅町三隅の子落(こおとし)地区は和泉式部が子を捨てた場所とされ2008年、言われを伝える石碑が建てられている。いずれの場所も登場しており、住民によって今も受け継がれている。

■鳥取、奥出雲、津和野にも伝承
和泉式部研究の大家で知られる故吉田幸一東洋大名誉教授(1909~2003年)の調査によると、山陰両県には和泉式部伝説が残る場所が多くある。
鳥取市湖山町には和泉式部の出生地が、同市鹿野町には、浜田と同じく産湯に使ったとされる池の跡があったという。島根県奥出雲町亀嵩には訪れた理由は不明だが、終焉(しゅうえん)の地と伝わる石塔、同県津和野町高峯の白糸の滝も産湯と伝わり、旧畑迫村には和泉式部の屋敷があったとされる場所がある。
■没後に広まった名声
島根県立大人間文化学部の山村桃子准教授(日本上代文学)は、和泉式部の伝承地は各地にあり、その理由について「和泉式部は没後に評価が高まった。恋多き女性で、物語の主人公にしやすい人物だったのではないか」と話す。

平安時代後期の勅撰和歌集「後拾遺集」には、和泉式部の歌が最多の67首取り上げられた。また、鎌倉時代にかけて御伽草子などの説話も多く作られている。少なくとも4人の男性と恋をし、娘の小式部内侍を早く亡くした和泉式部の物語は後世の人々によって、時に面白おかしく、時に悲哀を持って語られ、民間に広まったという。
和泉式部は中宮彰子に出仕する中で、藤原道長に仕え、武勇に秀でて「道長四天王」として名を挙げた中級貴族の藤原保昌(ふじわらのやすまさ)と2度目の結婚をする。丹後守に就任した夫について行った後は、どのような人生を過ごしたか不明だ。

一方、和泉式部にまつわる説話には、晩年は仏門に入ったとされる話が多い。民俗学者の柳田国男(1875~1962年)の説では、中世は熊野大社信仰の女性宗教家によって「恋多き女性だった和泉式部は信仰によって救われた」とのストーリーが全国に広められたという。浜田には和泉式部と直接の関わりがないことから、本人ではなく、女性宗教家のような後世の人物が訪れたとみる。
「○○の腰掛け岩」や産湯の井戸、池などは全国にある。どういう人物と関係させるかは歴史的背景と関係が深くなる。浜田の伝承の地は、信仰心を高める和泉式部の説話が、どこかのタイミングで、地域の神事に使っていた岩や井戸などと結びついた可能性が高いようだ。

柳田が研究した説話に佐賀県の「和泉式部の足袋」がある。和泉式部は鹿の子であったため、足の指が二つに分かれており、それを隠すために足袋が作られたとの話だ。山村准教授は「京と九州を結びつけるルートを埋めるように、山陰道でも地域の景観と結びつけた物語が創造されたのではないか」と可能性を指摘する。
■「光る君へ」どう描かれる?
大河ドラマでは、紫式部が中宮彰子の元で働き始めたところだ。今後、泉里香さん演じる和泉式部も出仕する。前回の登場では、宮中で流行する清少納言の枕草子について「人のぬくもりが足りない」と刺激的な発言をした。これから紫式部との関わりが増え、和泉式部の発言や行動が源氏物語に影響するような場面が描かれるかもしれない。

浜田に残る伝承では、和泉式部が「子落」で捨てた子どもは「大江山…」で知られる小式部内侍で、九州に下り、京都に戻る時に、再度立ち寄って引き取ったとされる。時系列で考えると、和泉式部は小式部内侍とともに中宮彰子に出仕しているため、浜田の伝承がドラマで反映されるとは考えにくい。

浜田では市民有志や観光協会により、大河ドラマに和泉式部が登場するのにあやかり「和泉式部ロード」をつくろうとする動きがある。有志の会代表の斎藤晴子さん(77)は「千年も前の人物の伝承がこんなに残っている地域は少ないはず」とする。和泉式部の物語が千年の時を超えて今なお、魅力的に語られ、心をつかんでいる。
和泉式部 越前守・大江雅致(まさむね)の娘。平安時代中期の歌人で、百人一首の歌人、中古三十六歌仙の一人。夫橘道貞が長保元(999)年に和泉守に任じられ、和泉式部と呼ばれたとされる。夫と別居後、冷泉天皇の為尊(ためたか)親王、次いで同母弟の敦道(あつみち)親王と恋愛した。藤原道長の娘彰子の女房として出仕し、藤原保昌と再婚。敦道親王との恋愛を主題にした「和泉式部日記」がある。