水省一さん(96)大正14年生まれ =出雲市斐川町=
当時は19歳で、徴兵されて九州の若松(北九州)にいました。昭和19(1944)年に徴兵検査を受け、それが合格でしたので、1945年1月10日に入隊しました。陸軍記念日の3月10日、父が面会に来て「新川のとこに飛行場ができるらしい。家の近くに作動路も作られるようだ」と伝えられました。
家の周りに飛行機5機
終戦後の9月、島根に帰ると、飛行機が家の前に3機、後ろに2機あり、びっくり仰天でした。銀河と、あとは「靖国」という飛行機だと聞きました。戦闘機か何かだと思います。誘導路もできていました。地盤の緩い土地ですから、まず地面に石が敷き詰められ、その上に厚さ4~6センチメートルの板が置かれていました。6月にはもう飛行機がいたと記憶していますから、たった3カ月足らずで飛行場ができてしまった。いかに状況がひっ迫していたかということです。

飛行機は終戦後もしばらくそこに置かれていました。若者や子どもたちが珍しがって、中に入ったり、羅針盤を触ったりしておりました。翌年、イギリスの植民地から来た兵隊たちが、その飛行機を焼いて処分していました。近くのお宮の所で、一カ所に集めて焼いていました。飛行機の先端の部品がひとつ、自宅の倉庫に残っております。
沈没船からコメを
九州にいたときは高射砲(地上から敵の戦闘機を撃ち落とすための火砲)部隊に所属しておりました。6月の八幡空襲のことはよく覚えています。爆弾の煙で空が真っ黒になり、その煙の合間からチカチカと、白く光って見えるB29を攻撃しました。
当時いちばん困ったのは、食べ物のことでした。食べ盛りでしたが満足に食事が取れず、毎日、食べることばかり考えておりました。沈没船から米を取って、乾かして食べたこともありました。普段はほとんど玄米でした。
若い人、興味を
良い面は、みんなが助け合って生きていたということです。飛行場の設営も、そういう考え方の元に行われたのだと思います。助け合いという考え方は良いけれど、戦争に持ち込むのはだめです。戦争をして、良いことはないです。
戦争の経験を語り継ぐことは大事だと思っています。若い人たちにも、お茶でも飲みながら話をしたいのですが、最近はそもそも「お茶を飲む」ということもなくなって、話す機会がなくなってしまいました。戦争学習は、ものの考え方のベースとなる勉強だと思います。若い人たちにももっと興味をもってもらいたいです。