2度目の東京五輪・パラリンピックは50年後にどう語られるだろうか。私たちは二つの祭典が終わったいま、新型コロナウイルスの感染爆発下で開かれた意味を考えてみる必要がある。
戦後復興から高度成長への階段を駆け上がっていく一大イベントとして歴史に刻まれた前回1964年五輪。時代は大きく変わった。低成長を余儀なくされ、人口減少と少子高齢化が襲い掛かる。会員制交流サイト(SNS)の乱用で市民の分断も進行。想定外のコロナ対応に追われたとはいえ、今回はこんな成熟国家における五輪のモデルを示すことが問われた。
政治に翻弄(ほんろう)され、大会の意義もくるくる変わり、最後は開催自体が目的化した。「多様性と調和」を掲げたにもかかわらず、それに逆行する言動で関係者の辞任・解任が相次ぐ。関連経費も含め3兆円ともされる費用は肥大化を物語り、無観客による入場料収入の消失が重くのしかかる。東京都が1300億円以上を投入して新設した競技会場のほとんどは赤字運営が避けられそうにない。
「資源を一切無駄にしない大会」を標榜(ひょうぼう)しながら、1カ月間でボランティアやスタッフ向けの弁当約13万食を廃棄、未使用の医療手袋やガウン、マスクなども大量に捨てられる不手際も発覚。ツイッターなどで選手を誹謗(ひぼう)中傷する光景も表面化し、アスリートをどのように守っていくのか、重い課題を突き付けた。
大会組織委員会などは、大きな混乱はなかったと総括するのではなく、祝祭のこうした負の部分を真摯(しんし)に検証して、市民に情報を開示しながら、説明責任を果たさなければならない。
一方、さほど注目を集めなかったが、東京2020は、斬新な挑戦をした。その一つが地球温暖化の要因となる二酸化炭素(CO2)を排出しない水素エネルギーの利用で、聖火や移動用車両の燃料になった。また競技施設では太陽光発電など再生可能エネルギーを積極的に導入したという。環境に配慮した試みは、五輪で終わらせず、社会に広げていきたい。
国立競技場をはじめ、世界各国の選手が躍動した舞台は、子どもやお年寄り、障害者も気軽に利用できるよう市民に開放すればいい。それが人生100年時代の長寿、共生社会のシンボルになり、赤字への反発も和らげるだろう。
招致の際の立候補ファイルに「アスリートが最高の状態でパフォーマンスを発揮できる理想的な気候」と記された東京五輪。しかし、それとはほど遠い猛暑に、男子テニス、女子サッカー、女子マラソンは日程変更に追い込まれた。世界のスポーツカレンダーの制約はあるものの、開催時期を過酷な真夏から本当にずらせないのか。1都市集中を避けた分散開催や、既存の施設の利用など負担軽減をより前へ進めることも検討すべきだ。
持続可能な、他者をおもんぱかり、誰も取り残さない包摂の社会の構築や障害者も安心して暮らせる街づくりの推進、真のアスリートファーストの確立と巨額な予算を投入しないスポーツの祭典へ。「東京2020をきっかけに変わった」と思えるようになれば、それがかけがえのないレガシー(遺産)となる。スポーツの魅力と感動を存分に味わった私たちが、社会と五輪の変革を促す行動で応える番だ。