17日に死去した自民党の竹下亘衆院議員(島根2区)は2014年9月から15年10月まで復興相を務め、東日本大震災から立ち上がろうとする地域に寄り添った。福島県の関係者からは訃報への悲しみとともに、現在につながる復興の道筋を付けてくれたと感謝の声が上がった。
「皆さん大変な思いをされているから」。復興相就任後、福島県入りした竹下氏は原発事故の影響で会津若松市に住民避難していた大熊町の渡辺利綱町長(当時)に、懇談会を提案した。市内の老舗日本料理店で向き合った竹下氏と復興庁職員、渡辺町長と役場職員は、忌憚(きたん)なく意見を交わした。竹下氏が「実家の酒だから」と持参した竹下本店(雲南市掛合町)の日本酒も酌み交わし、翌日の会議を前に胸襟を開くことができた。
渡辺氏は「後にも先にもああいうことをしてくれたのは竹下さんだけ。人間味にあふれていた」と懐かしむ。
大熊町はその後、東京電力福島第1原発事故の除染廃棄物を保管する中間貯蔵施設の受け入れを決めた。抵抗感を示す住民もいたが、議論は比較的順調に進んだといい「竹下さんがいろいろ丁寧に積み重ねてくれたからこそ、今に至る」と感謝の言葉を述べた。
17年4月から18年10月まで復興相を務めた福島県選出の吉野正芳衆院議員も「復興へ筋道を付けてくれた」と功績をたたえた。
竹下氏は全額国費だった復興事業について一部地元負担を求めることを決め「本当に必要な事業は何か」と自治体の本気度を引き出した。吉野氏は「それまではすべて国費なので自治体は過大な事業もできた。少しだけでも地元負担することになり節度が生まれた」と述懐した。
当選同期で「一番の友達」。原発事故後すぐに地元に戻った吉野氏に対し「命あってのものだから」と避難するよう促す電話が毎日あった。
2人には都内に行きつけのそば屋があった。1カ月ほど前、電話で「そばを食べに行こう」と誘われたが来客がありかなわなかった。「あの時に行っていれば…。本当に残念だ」と別れを惜しんだ。 (白築昂)