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大正、昭和初期の俳人・原石鼎(せきてい)(1886~1951年)の句碑と顕彰碑が、生誕地の出雲市塩冶町に完成し21日、除幕式があった。石鼎の句碑は市内に五つあるが、生誕地の塩冶地区にはなく、関係者や住民が、郷土の偉人の足跡を伝える碑の建立を喜んだ。
石鼎は、医師の家に生まれ、簸川中学校(現在の大社高校)在学中に俳句に傾倒。投句が高浜虚子に高く評価され、上京後は新聞社で選句を行う傍ら、企業や大学での俳句指導や、句誌「鹿火屋(かびや)」を主宰し多くの門人を育てた。
今年が没後70年に当たることから、4月に地元で顕彰句碑建立の会(須山泰則会長)を発足。住民や地区出身者の募金約260万円で造り、北側に生家があった場所が見える位置にある塩冶揚公園に設置した。
石碑は八雲石を使った句碑(高さ1・8メートル、幅0・8メートル)と、黒御影石製の顕彰碑(高さ1・2メートル、幅1・3メートル)の二つ。句碑には、母危篤の知らせを受けて帰郷した石鼎が詠んだ「故郷のすすしの陰や春の雪」の句が刻まれている。
式には会の関係者や住民ら約150人が出席した。須山会長(80)が「原石鼎の業績を伝え、地域の子どもたちの古里学習の場になってほしい」とあいさつ。来賓の飯塚俊之市長らが除幕した。
医師にならず父に冷遇された石鼎にとって、支えてくれた母の存在は故郷そのもので、除幕した石鼎の孫で「鹿火屋」を主宰する原朝子さん(58)=神奈川県二宮町=は「母への深い愛が故郷の言葉に込められており、いい句を選んでくれた」と碑建立に感謝の言葉を述べた。
(三原教史)