太平洋戦争末期の1944(昭和19)年夏、鳥取県日野郡の国民学校高等科2年生から選抜された13~14歳の軍国少年がいた。国立公園・大山の麓にあった大山滑空訓練所の2期生35人。戦局悪化の中、1カ月の合宿で滑空技術を習得し、敵機撃墜を夢見て少年航空志願兵を目指した。戦後76年、3人の元2期生が、終戦時に大半の資料が処分された滑空訓練所の様子を証言した。 (山根行雄)
大山滑空訓練所は学徒動員・出陣が始まった43年、飛行機乗員の養成を目的に旧溝口町金屋谷(現伯耆町)の県営種畜場に開設された。郡内の各校から学業優秀で身体強健の男子が選抜され、教官12人の猛特訓を受けた。
滑空機は木製1人乗りの文部省式1型(初級機)。全長5・55メートル、全幅10・3メートル、全重量150キロ。機首に取り付けたゴム索のワイヤを10人前後で引っ張り、パチンコ玉のように機体を押し出して飛ばす。
早く一人前に
根雨学校(日野町)出身の橋谷億(はかる)さん(90)=江府町武庫=は仲間3人と選ばれた。「操縦席はむき出し、握るのは機首の上下を調整する操縦桿(かん)だけ。足元の装置を踏み込むと、尾翼が左右に動いた。当時は2機あった」
訓練は滑走路に見立てた牧草地の草刈りから始まり、地上滑空で搭乗に慣れると斜面を利用して飛行した。米沢学校(江府町)出身の藤原巧(さとし)さん(90)=同=は「『貴様ら…』と教官から叱られた訓練は苦しかったが、死への恐怖感はなく、早く一人前の飛行機乗りになって敵をやっつけたいと思っていた」と振り返る。
滑空高度は1~3メートル。明倫学校(江府町)出身の宇田川潔さん(90)=同=は「飛距離は300メートル前後。着地した後の機体引き上げは大変だった」と記憶をたどった。
44年6月からの本土空襲、同7月のサイパン島玉砕…。戦局悪化で食糧難は深刻だった。信号ラッパで目覚め、畜舎を改修した宿泊棟から飛び出して励む訓練生活で、唯一の楽しみは麓から運び込んだ主食のサツマイモ給食だった。
国威発揚の歯車
高等科を修めると、3人はそれぞれの道を歩んだ。6人兄弟の次男だった橋谷さんは海軍の少年航空兵に志願して受験したが、体調を壊して2次不合格。朝鮮総督府鉄道局が経営する朝鮮鉄道の機関士になり、異境の地で終戦を迎え、引き揚げ船で45年11月に古里の土を踏んだ。
藤原さんは旧関金町(現倉吉市)の県立修練農場(現在の県立農業大学校)へ。終戦詔書の玉音放送に涙を流した。航空兵を夢見た宇田川さんは父親が「おまえを死なせたくない」と頑として反対。進学した鳥取師範学校(現鳥取大)で敗戦の一報に打ち震えた。
大山滑空訓練所を独自調査するNPO法人こうふのたより副理事長で、元高校教師の井上裕吉さん(69)=同=は、戦後を生き抜く元訓練生の胸の内をこう代弁する。
「一億総火の玉が叫ばれた戦時下、田舎の学校も国威発揚の歯車の一つとなり、少年たちは戦局を何とかしたい気持ちに駆られ、懸命に生きていた。戦争の足跡として語り継ぎたい」
大山滑空訓練所 航空思想の普及と飛行機乗員養成を目的に、全国各地に設けられた大日本青少年滑空訓練所の一つ。鳥取県内には4カ所あり、島根県内にも三瓶山などにあったとされる。戦時中の軍部は制空権の維持・拡大に向け、航空兵力増強を急いでいた。