公開された発掘現場で銅剣を一目見ようと列をつくる住民たち=1984年8月11日、荒神谷遺跡
公開された発掘現場で銅剣を一目見ようと列をつくる住民たち=1984年8月11日、荒神谷遺跡

 「なんか、剣みたいなもんが出たげなよ」。広域農道建設のための遺跡分布調査の作業員として、谷あいの現場にやって来ていた地元住民たちのざわつきは数日後、全国へと伝わった。

 後に「荒神谷」(出雲市斐川町神庭)と呼ばれる谷の斜面で、2千年以上前の弥生時代に埋められた銅剣が何本も見つかったというビッグニュース。ロサンゼルス五輪開幕を控えた1984年7月中旬のことだ。

 当初4本程度だった剣の数は10本、50本、100本と日ごとに増え、最終的に358本に上った。それまでに全国で見つかっていたものを、全て合わせても約300本だった。1カ所でそれを超えた。

 発掘が進み120本ほどになった8月中旬、一般公開された現場には全国から待ちに待ったファン約1100人が詰めかけ、かつてない熱気とざわめきが谷を覆った。以来、現場一帯に県外ナンバーの車や大型バスの列ができた。

 近くの村上晴栄さん(69)は「ここに県外の人が来るなんて信じられないことだった」と振り返る。後に整備された資料館「出雲の原郷館」(現荒神谷博物館)の職員として、当時の熱気を知る一人として、村上さんは数え切れない人たちを迎えることになった。

▽分布の常識覆す

 翌年夏、荒神谷では新たに銅鐸(どうたく)6個、銅矛16本が出土した。島根県文化課の職員として発掘に携わった松本岩雄さん(70)=島根考古学会長=が、端緒となる一片の土器を見つけた。2年続きの暑い夏の始まりだった。

 数もさることながら銅鐸と銅矛が同じ場所から出るのが初めてで、全国に2度目の衝撃が走った。「弥生時代の青銅器の分布の常識を覆した大発見だった」(松本さん)。その後、出土品は全て国宝になった。

 発見の意味としてもう一つ大きかったのは「出雲国風土記」をはじめ、奈良時代に編纂(へんさん)された「古事記」「日本書紀」の出雲神話の世界を、ぐっと身近にしたことだ。

 例えば、谷があるのが、出雲国風土記にある出雲郡の「神名火山」と推定される仏経山のすぐそばだったこと。荒神谷博物館の藤岡大拙館長(90)が「青銅器と出雲神話とは直接は結び付かない」とした上で、力を込める。「出雲は古い歴史のある地。やっぱり『神話の国』なんだとみんなが思った」

▽伝承と現実つなぐ

 千年の節目のミレニアムイヤーだった2000年4月。その神話の国に、また全国が注目した。場所は年間200万人が訪れる出雲大社(出雲市大社町杵築東)の境内。現在の2倍となる「高さ48メートル」の高層神殿だったと伝わる本殿を、これなら支えただろうと思わせる「宇豆柱(うずばしら)」の発掘だ。

 地下室を造るための調査で掘った境内で、直径約1メートルを超えるスギの柱材を3本束ねた、巨大柱の根元の部分が見つかった。設計図とされる「金輪造営図(かなわのぞうえいず)」と合致。図面通り、中央の柱「心御柱(しんのみはしら)」なども発掘された。年代測定によって鎌倉時代前半の本殿の柱と推定された。

 高層神殿は、本当にあったのか。日本書紀にはオオクニヌシノミコトの「高天原への国譲り」の代償として壮大な神の宮を造営する神話が登場する。平安中期に書かれた貴族子弟の学習書「口遊(くちずさみ)」には日本中の大きな建物を順に「雲太(うんた)、和二(わに)、京三(きょうさん)」(出雲大社本殿、東大寺大仏殿、平安京大極殿)とある。高層神殿が、高さ約45メートルだった大仏殿を上回っていたことを示し、ロマンをかき立てる。

 「宇豆柱は神話と現実をつないだ」-。発掘の主担当だった、県古代文化センター専門研究員の松尾充晶さん(49)は、興奮に包まれた世紀の発見現場の真ん中で、そう実感した。

  (月森かな子)