日本人として2人目のノーベル文学賞作家、大江健三郎さんが亡くなった。文学の世界にとどまらず、言論界や平和運動でも影響力が大きかった。喪失感は深い。
東京大仏文科在学中の1957年、22歳でデビューした。翌58年に「飼育」で芥川賞を受けて以降、最前線を走り続けた。
才能きらめく「奇妙な仕事」や「死者の奢(おご)り」を発表して華麗なスタートを切ったが、「文学界」に掲載された「政治少年死す」は書籍化されず〝お蔵入り〟となる。
60年に社会党委員長の浅沼稲次郎が刺殺された事件に触発されて執筆したが、天皇制タブーに触れたためか右翼団体から抗議を受けたのだ。全集に収録され、再び日の目を見るまで57年もの歳月を費やした。どんな社会問題にも切り込んでいき、決して諦めない作家であることを印象付けるエピソードだ。
高校時代に親交を結んだ映画監督の伊丹十三さんの妹、ゆかりさんと結婚、63年に生まれた長男に障害があったことが文学の主題に昇華する。
「個人的な体験」は「鳥(バード)」と呼ばれる予備校教師が主人公。頭部に異常がある子が生まれ、その子の死を願ったバードが、自らの運命を受け入れるまでの魂の遍歴がつづられる。
もう一つのモチーフは土地の記憶だ。「万延元年のフットボール」は四国の森と谷間の村を舞台に兄弟、夫婦の確執と絆を問う。この村ではかつて一揆があり、首謀者は森を通って逃げた逸話が残る。主人公と妻は障害のある子どもを見捨てたという罪悪感に苦しんでいる―。
まさに「個人的な体験」から出発して普遍に到達した。深い思索、高い倫理観に根ざしつつ、自由な想像力で豊かな物語を紡いだ作家だった。
ノーベル賞を受けた際の記念講演「あいまいな日本の私」で、大江さんは自分を「破壊への狂信が、国内と周辺諸国の人間の正気を踏みにじった歴史を持つ国の人間」と位置付け「不戦の誓いを日本国の憲法から取り外せば、(略)アジアと広島、長崎の犠牲者たちを裏切ることになる」と述べた。2004年に「九条の会」を結成して活動したのは、その思いが底流にあったからだろう。
「ヒロシマ・ノート」で被爆者の苦しみを、「沖縄ノート」で沖縄戦での集団自決を刻印し、核や基地の問題について発言し続けた。東日本大震災による原発事故後は脱原発を呼びかけた。常に時代と向き合い、言葉で格闘した。反発する人もいたが、ひるむことはなかった。一方で、若い作家を顕彰する賞をつくって励ました。行動し、連帯する人だった。
繰り返し語った話がある。知的障害のある息子は幼いとき、野鳥の歌だけに反応し、人の言葉には無反応。だが6歳の夏、クイナの鳴き声を聞き「クイナ、です」と言う。やがて会話を始め、後に作曲をするようになる。大江さんは、息子の曲に「泣き叫ぶ暗い魂の声」を聞き取りつつ、それが彼自身の悲しみを癒やし回復させているとみた。そして「芸術の不思議な治癒力」を信じた。
困難の中に光を見いだした。暴力を凝視しつつ、希望を語った。源泉にあったのは、人間や市民社会への信頼ではなかったか。私たちは大江さんを失ったが、作品の核にある志を引き継がなければならない。