読者の皆さんから意見を募り、山陰中央新報とSデジ(デジタル版)に掲載する「さんコメ!」。「一畑百貨店閉店へ」にたくさんの投稿をありがとうございました。いただいた全ての投稿と、記者の雑感を掲載しています。(かっこ内はペンネーム。内容は一部要約・編集しています)
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1、一畑百貨店ができて10年も過ぎてない時代に家族で月に1回、6階の大食堂に連れて行ってもらい、私、弟には必ずと言ってもいいくらい「お子様ランチ」を頼んでくれた亡き父。食事が終わると屋上の遊園地に行き(確かミニの観覧車なかったですか?)、遊ばせてくれた楽しい思い出がよみがえってきました。まだ昭和だった良き時代、娯楽の一つでした。百貨店が殿町にあった80年代は、私が社会人で職場からも近く、お昼休みになると同僚と出かけたり、休みの日は友人と! 昔の包装紙は、オレンジ色がメインだったような。一畑百貨店にはたくさんの思い出があります。来年1月に閉店すると速報が入った時はビックリしました。駅前に移転してからもお中元、お歳暮、結婚する友人へのお祝いなど買いに出かけ、帰りに地下の大判焼き屋さん、そしてミニクロワッサンを量り売りしてるパン屋さんへ。先日、久しぶりに地下に下りてみたら、回るお菓子のコーナーはまだ健在で懐かしい駄菓子もあり母に買って帰ったばかりでした。駅前のシンボルともいう一畑百貨店が閉店されてしまうと、近くでよく買い物されてた高齢の方々は、残念でならないでしょうー。思い出深い一畑百貨店の継続は難しいかと最近、思ってしまいます。松江の顔でもあった百貨店! 駅前が寂しくなりますね。(百貨店子、60代)

2、とても、残念。他府県在住で、百貨店の中で働いているのですが、なるべく一畑で買うようにしていました。ある時、欲しいアイテムがあり、問い合わせると在庫になく、ネットで買うことを勧められました。おそらく入荷するのにも経費がかかるのだろうと理解しました。いつかは、こうなると、覚悟はしていたつもりですが、残念です。買い物だけでなく、全国のはやりもの、おいしいもの、文化的なもの、県民の誇りみたいなものが、なくなりました。頑張られたと思います。一畑パークとともに、思い出にさせてもらいます。(M、60歳)
3、長らく親しまれてきた一畑百貨店閉店はとても残念です。思い起こせば映画館や屋上遊園地(遊具場)があり、子どもを病院へ連れて行った帰りはいつも大食堂へ。席は、当時大手門並びに消防署があり、それ見たさにいつも北側窓辺の席へ座ったものでした。そして地階のラウンドケーキが珍しく、量り売りで買っていました。駅前に移っても今でも地階のラウンドケーキコーナーが大好きです。ちょっとしたお返し、友だちへの心配りに最適です。いつもやさしく、人数分の袋に分け入れてもらえて、ありがたいです。昔も今も変わらない、横浜のラウンドケーキ、いちごジャム入りマシュマロがなくなるのはとても寂しい気がします。お茶のお供に各地の銘菓も買えるのは唯一、一畑百貨店でした。もちろん、他に進物や衣類、雑貨と、ちょっと品良く購入できたのも思い出の日々よぎります。(オキョン、72歳)
4、私は40歳で江津市に帰ってきた。都会の生活が長くて、買い物はスーパーでなく、デパートを使っていた。なので、父は欲しいものがあれば月に1、2回大阪のデパートへ行けばいいと言ってくれた。しかし、じっと島根県を見ていると、一畑百貨店がある。見ていると、規模は小さくても、大阪の三越や阪急百貨店に似ている。なので一畑百貨店を使っていた。その中に私の好きな洋服屋があった。ほとんど浜田店を使っていた。すると、浜田店が閉店になり、出雲店に行くようになった。すると、出雲店も閉店、松江は大丈夫と思っていたら、松江も。私はこれから私好みの服をどこで買えばいいのでしょう。(ドルチェ、76歳)

5、今は施設で暮らす祖母のお気に入りの場所でした。デイサービスはまだ必要ないという高齢者のお出かけ先のイメージだったので、若い客層を取り込もうと必死な感じに「そうじゃないのになぁ」「トータルコーディネートやかゆいところに手が届くサービス(夏だけ仏壇の仏花の造花のちょっと見栄えのいいものとか)があると来るのになぁ」「子どもの頃は百貨店はワクワクウキウキするところだったのにな」なんて思っていました。(元都会っ子)
6、このたび、閉店の知らせを聞き、子どもの頃の思い出が急にあふれてきました。その頃は、法吉に住んでいたのでバスで行くとすぐ近く。父は仕事で長期不在も多く長子でもあったことから、母と2人で行ったものでした。当時の屋上の乗り物も楽しみでしたが、食堂で食べるオムライスがとてもおいしかったです。今のはやりのトロトロ卵ではなくて、チキンライスを薄い卵焼きで巻いたものです。ケチャップが真ん中辺りにトロリとかかってました。記憶では、キリンのイラストが入ったペーパーエプロンを付けて食べたものです。窓から見下ろすと、当時はまだ消防署が近くに見えていたのを思い出します。子どもにとっては大きなオムライスでしたが、この日ばかりはおなかにおさめていました。今もやっぱりオムライスは、卵焼き派ですね。(たこやん、50代)
7、子どもの頃、出雲の一畑にはよく行きました。キャンディーやらがくるくる回ってる量り買いのお菓子を買うのが楽しみでしたね。ポップコーンも好きでした。屋上の金魚すくいも楽しい思い出ですね。時代の流れは無情ですが、また新しいものが出現するのを楽しみにしたいです。高齢化先進県の島根だけど、諦めずに明るい未来を希望したい。

8、55年前、当時高校生だった私は出雲一畑百貨店前から出るバスで通学していました。時間待ちに百貨店でよく総菜や菓子を買って過ごしていました。松江で下宿生活をするようになり、当時殿町にあった百貨店で貧乏学生にとっては夢のある空間、時間を過ごしました。結婚してからは一畑友の会に入り中元、歳暮はもっぱら一畑の商品券を使い現金の節約をしていました。一畑百貨店は夢とあこがれとちょっぴり豊かさを感じさせてくれる場所でした。(ハラパット、70代)
9、百貨店の包装紙、赤いバラ。すてきです。最初にこの柄を見た時、品良く美しくて感動しました。私の中では最も美しい包装紙です。叔母がこの包装紙にこだわり、小さなものでも一畑で買い物をしていたことを忘れません。叔母が来ると、バラの包装紙が見られる、わぁ…と心が躍る思い出は忘れられません。寂しいなぁ。あの柄、忘れませんよ。一畑会社のどこかで使ってほしいな。(オルオル)
10、一畑百貨店の閉店については、思い出がたくさんあって、残念な気持ちでいっぱいです。子どもの時は特別なお出かけの場所で、エレベーターガールがいる非日常的なお店にワクワクしてました。駅前に移転してからも、質の高い品ぞろえで、頼りにしてました。今の時代では、こういう場所を必要としなくなってきたかもしれませんね。都会でも、百貨店の閉店があるので、仕方ない気がします。ただ、松江の正面玄関ですから、駅前のにぎわいがなくならないようにしてほしいです。(ぴーこ)

11、私は平田町に生まれ、今は出雲市内に住んでいる60歳還暦のババです(笑)。私の一畑百貨店の思い出はたくさんあります!! 私が小さい頃、実家の亡くなった祖母と行った7月31日の一畑百貨店が懐かしい思い出です。7月31日は私は会ったことのない祖父が戦争で亡くなった命日。毎年夏休みの行事として、近所の同じように戦争で亡くなられたおばあさんと孫さん(私の一つ下)と4人で、一畑電車で松江の護国神社にお参りして、帰りに一畑百貨店最上階のレストランでお子様ランチを食べて屋上に出て、遊具に乗せてもらったのが一番の思い出です。
平田の田舎から電車に乗って松江に行くのは、あの頃の私にとっては旅行みたいな感じでした。レストランで食べた旗の付いたケチャップライスにエビフライ。ごちそうでした。一畑百貨店が新しく松江駅近くになり、お正月の福袋を予約して一畑ホテルに泊まるのも、息子3人がそれぞれ家庭を持ち、主人と私2人になり楽しみの一つになっていました。今年が福袋で泊まるのも最後で先日主人と宿泊して来ました。ビアテラスでビールを明るい時間から飲んで、部屋に戻る時はもう暗くなっていました。「今年が最後の福袋宿泊かなぁ」と言いながらゆったりとした時間を過ごしました。
そしてもう一つの一畑百貨店の思い出は、孫の日に写真とメッセージを送ると年末にはパウチで写真付きのカレンダーを作ってくれ、一畑百貨店のエスカレーター横に貼ってもらい、それを見に行くのも楽しみでした。孫は6人いますが、上の子の1歳の誕生日の2014年から今年のカレンダーをずっと自宅に貼っています。来年のカレンダーは?とさみしくなります。主人への感謝の言葉でもメッセージを送り、一畑の雑誌に載ったことも。
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そして一畑百貨店もう一つの思い出は何と言っても、今年早々に一畑百貨店に買い物に行って、帰りにテレビ番組「せっかくグルメ」でバナナマンの日村さんに偶然にお会いして取材されたことです。「お薦めのお店を紹介して!!」と言われ主人が「一畑百貨店内6階の一福そば屋さんのまいたけてんぷらそば定食」を紹介してテレビ放送されたことです。2月の放送日には主人も私も携帯電話が鳴りやまず、LINEも100件近く…。こんなことは初めてで、当日のテレビは私たちも生では見られず、録画したのを後で見たぐらいでした。知らない人から「あなたテレビ出てたよねー。一福そば屋さんに食べに行ったよぉ」と声をかけてくださる人もいたぐらいでした。主人は仕事関係者の方々からも「見たよ」とずっと言われたと!!
一畑百貨店の閉店が決まり、友だちからは「一畑百貨店内のそば屋さんを紹介したのに閉店なんて…。残念だねー」と言われました。昔、叔母はレストランで働き、姉2人も一畑百貨店で働いていました。何かと私には縁があったのに閉店になりホントさみしいです。主人とゆっくり買い物に行き、一福そばを食べて帰ろうと思っています♪ 長くなりました。島根県から百貨店がなくなるのは本当に寂しいことです。大田市にも出雲市にも…ゆめタウン出雲店内にもあったのに。あの包装紙でもらうとリッチな気分になったのになぁ…。(出雲のポパイとオリーブ)

12、一畑百貨店の閉店が決まってから松江市が「対策をー」って言ってて、閉店宣言の前から対策すべきなんだよなーって思いました。
13、受付カウンターや倉庫がなくなり、まさかと予測、的中。ただ、一畑ブランドに依存過度の社風に責任あり。店のスタッフに威張ったところがあり、態度が悪かった。まさに高齢者デパート。一畑は地方風土にあぐらかいた、まさに敗者です。上定市長に責任は何らありません。一畑グループの責任ですよ。
14、島根県西部からの仕事の出張はいつもJRで松江。でも、一畑やシャミネに寄れるのが楽しみで、汽車の時間がなくて、寄れないときは、せっかくここまで来たのに…と損をした気分でした。都会に来たようで、静かで厳かな感じ、店員さんも勧めに来られるし、高揚感&緊張感があったように思います。実際は、洋服は高くてゼロを数えてびっくりした方が多かったですが…。でも、最上階のレストランからの松江一望は、本当にすてきだと思います。何回か食事しましたが、今も目に焼き付いています。全部引っくるめて、閉店前には、必ずもう一度行きます。(あさがお)

15、私はかつて三十数年、一畑百貨店で地域一番店としてのプライドを持って働いていました。買い物もたくさんしてきました。また、私が一畑で働き出した頃は組合などの行事も盛んで、運動会やスキーツアー、クリスマス会、バスツアー、ゴルフコンペ、課ごとの忘年会などなど、店員同士の交流もたくさんありました。自分の青春と重なっていたので楽しかった思い出が次々と思い出されます。古巣がなくなってしまうのはやはり寂しいかぎりです。(小春)
16、一畑百貨店閉店は、残念です。ショック! 農家で遠くの田舎でしたが、一畑百貨店での買い物、中元、歳暮の包装紙などは、ステータスでした。遠い昔を懐かしみ残念です。県都松江の表玄関、魅力あふれる開発を望みます!(タカボー)
17、私は、出雲市に嫁いで20年がたちます。20年前は、出雲市駅前の一畑百貨店にパン屋のDONQ(ドンク)がありました。とてもおいしくて、時々買っていました。また、資生堂の化粧品売り場には、7年くらい通ったと思います。ちょうど、幼なじみの人が店員さんだったので。(やっこ、40代)
記者雑感 閉店惜しむ人の多さ 改めて実感
募集開始と同時にたくさんの投稿が寄せられ、閉店を惜しむ人の多さを改めて実感しました。非日常を味わえる、地元の特別な場所として、親しまれてきたことが文面から伝わってきました。反対に、店舗内外の状況から閉店を予測していたという、厳しい意見もありました。
記者は就職で松江市民となり、贈り物や土産物の買い物でよく利用しました。新型コロナウイルス禍で県外に自由に行けなくなった時、旅行気分を手軽に味わえる物産展が気分転換になったのも思い出深いです。
一方で昨年、食品売り場の買い物客を取材した際、品質や品ぞろえの豊富さよりもJR松江駅に近い利便性から利用する、自家用車を持たない高齢者が少なくなかったことが心に残っています。投稿にもありましたが、そういった人は今後、どこで買い物をするのだろうかと気がかりです。(担当記者)
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次回テーマ 炎天下のスポーツ大会 どう考える?
次回のテーマは「炎天下のスポーツ大会、どう考える?」です。連日の猛暑の中、高校野球やインターハイなどが実施されています。子どもたちが練習を重ねて培った力を発揮する大切な機会ですが、熱中症疑いで搬送されるなど、命に関わるような暑さです。「選手ファースト」で開催するにはどうしたらいいと思いますか? 皆さんの意見を教えてください。
コメントをLINEで募ります。匿名でかまいませんが、できるだけ年齢(年代)、ペンネームを書いてください。9月3日に掲載します。