元プロ野球ヤクルト投手の故鈴木康二朗さんが時の人になったのが1977年9月3日の巨人戦だった。打席には本塁打世界新が懸かった王貞治さん。勝負を避ける投手が多い中で「打てるものなら打ってみろ」と投じた決め球のシンカーは右翼席に消えた。ハンク・アーロン氏の記録を塗り替え万歳する王さんと、腰に手を当てる鈴木さん。2人の表情は繰り返しテレビで流れ、鈴木さんには「王に756号を打たれた男」の枕詞がついて回った▼将棋棋士の永瀬拓矢さんに同じ姿が重なった。きのうの王座戦で藤井聡太さんに敗れて失冠し、前人未到の八冠独占を許した。背中越しに浴びるフラッシュはつらかっただろう▼2人は何百局と練習将棋を指し、棋力を高め合った。藤井さんが「四段の頃から教えてもらい、自分を引き上げてもらった」と感謝すれば、永瀬さんも10歳近く年下の藤井さんを「手本」とし「将棋への向き合い方が変わらない」と敬う。永瀬さんの存在なくして、藤井さんの偉業はなかった▼756号を許した鈴木さんは「自分がつぶれたら王さんが1人の投手を殺したことになる。打たれたことで頑張れた」と振り返っている。反骨心を糧に、翌年は13勝3敗で球団初の優勝に貢献した▼永瀬さんも引き立て役で終わるつもりはないだろう。「令和の名勝負」は始まったばかり。八冠を阻止するのもまた永瀬さんであってほしい。(玉)