石見神楽の口上の英語訳を流し、舞う出演者=11月、浜田市内
石見神楽の口上の英語訳を流し、舞う出演者=11月、浜田市内

 日本の年末はベートーベンの『第九』が音楽会の定番だが、ヘンデルの『メサイア』もよく演奏される。<ハ~レルヤ>の歌詞を聴けば、あれかとなる。ヘンデルと「音楽の父」バッハは1685年、ドイツの地方都市で生まれ出世地も近い。

 生前の富と名声は、オペラの本場イタリアや大都市ロンドンで活躍したヘンデルが圧倒的に高く、バッハは国外に出たこともなかった。今だと国際的アーティストと地方の音楽職人という感じか。バッハは同い年のヘンデルに憧れたはずだ。地方のハンディはあったが作品群は没後に評価された。

 地の利の不利は日本の神楽にも。能や歌舞伎が観衆の目に留まりやすい上方、江戸と都会で発展して世界で知られるのに比べ、同じ総合芸術でも地方発で広がりに欠けた。

 それでも近年、島根県西部の石見神楽で新たな試みが始まっている。インターネット動画や舞台脇のモニターで舞とともに日本語、英語の字幕を表示し、見る者の理解につなげる。話が分かれば面白く動画での予習も有用だ。ネットの力で魅力が海外の人に伝わり、本場の舞台を見ようと大勢で県西部を訪れたら-。何が変わるのか夢想する。

 伝統保持か客の評判で変えるのかは加減が難しい。人気を保つのに疲れたヘンデルは個性的に書き始めた晩年の曲が今、演奏機会が多い。バッハは人気に左右される環境になかった。両巨匠の姿は示唆に富む。(板)