東京五輪はきょう、19日間にわたった競技が終了し、閉幕する。新型コロナウイルス禍によって厳しく制限された環境にもかかわらず、躍動した世界各国のアスリートに拍手を送りたい。

 しかし、私たちは緊急事態宣言発令下での無観客開催となった、このスポーツの祭典を心の底から楽しめただろうか。日本勢のメダルラッシュに歓声を上げながらも、コロナの新規感染者が一気に増加して、期間中に宣言の対象追加や、各地でまん延防止等重点措置の適用を余儀なくされるなど不安が膨らんだ。

 五輪がコロナ感染急拡大を招いたとは言えないまでも、「安全・安心な大会」が揺らいだのは間違いない。コロナ対応も、五輪についても菅義偉首相はじめ政治のメッセージが希薄であったがゆえにコロナへの危機感が共有できず、何のための五輪なのか、その意義は最後まであいまいなまま。「復興五輪」も「コロナに打ち勝った証し」も実感することがなく、「現実」に引き戻されることになる。

 五輪ありきで臨んだ菅政権は、開催から逆算してさまざまな感染症対策を練ったはずだ。ところが、頼みのワクチン接種は停滞し、経験したことのない爆発的な感染拡大で医療の逼迫(ひっぱく)を迎えてしまった。感染者の入院制限という方針転換は、楽観的な見通しに基づく失政と言われても仕方あるまい。市民が安心して応援できる舞台を整えることができなかったのは明白である。

 開催国として国際的な信用を失墜させる混乱も続いた。森喜朗元首相が女性蔑視発言で大会組織委員会会長を退く。女性タレントの容姿を侮辱する内容の演出を提案したり、耳を疑うようないじめ問題や、ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)をコントのネタにしていた過去が発覚したりして、開・閉会式の演出、音楽担当者が次々と辞任・解任に追い込まれる。

 東京五輪の基本コンセプトの「多様性と調和」に疑義が生じ、国家的なイベントにかかわるスタッフの人選に細心の注意を払わなければならないという重い教訓を残した。開会式では、4千食分の弁当を廃棄する大失態も演じ、大会テーマの一つの「持続可能性」は、むなしく響いた。

 簡素な五輪を掲げながら関連支出も含め3兆円に上るともされる開催費用を巡っては、900億円の入場料収入の大半が消えた。五輪を通じた国際交流の機会もコロナ禍で多くが失われ、経済効果も海外からの観客の断念などで目算が狂った。

 東京都が1300億円以上をかけて新設した競技会場6施設のうち、有明アリーナ以外は年間収支の赤字が見込まれる。シンボルの国立競技場も、民営化計画は採算性などの面で難航し、策定が先送りされている。

 アスリートはスポーツの力を存分に伝えてくれた。ただ、収束が見えないコロナ禍の下で、強引に突き進んだ「代償」も大きく、うたげのあと、私たちは祭典がもたらした影や負の遺産に向き合わなければならない。新たな負担の問題も出てくるだろう。

 不可欠なのは、政府や組織委員会の徹底した情報開示による、透明性の高い、丁寧な総括と説明だ。東京2020をレガシーとして後世に引き継いでいくには、何よりも市民との真摯(しんし)な対話が求められている。