青木幸正さん
青木幸正さん

青木幸正さん(85) 昭和11年生まれ =出雲市斐川町=

 当時は出西国民学校3年生、8歳でした。2年生の3学期、出西に飛行場を作ることになったと伝えられ、学校のみんなで(土地を)きれいにするんだと、春休み頃に、全員で半日ほど草取りをしました。敷地の奥、一番西側を割り当てられました。

「沖縄を取り返すんだ」
 飛行場がいつごろ完成したのかは分かりませんでした。自分が生まれ育ったのは、出西でも山の方で、飛行場からは距離もありましたし、今みたいに情報が行き渡る社会ではありませんでしたから。飛行機が飛び立ったり、着陸したりするのを見てなんとなく、ああ、飛行場ができたのかなあと、思うくらいでした。基地建設について当初は「沖縄を取り返すんだ」「本土を守るんだ」と聞かされていました。幼かったし、情報も少ない中でしたから、そういう状況なのか、と思っていました。

 男性は兵隊へ行っており、残っていたのは女性と、自分らのような子どもばっかりでした。ほとんどが農家でしたから、米作りをするのですが、男手がない中での農作業は大変なことです。稲を刈った後に高畝(地面から高めに作られた畝)を作り、麦を植えるのですが、高畝を掘るのなんて本来は男性の仕事ですから。繁忙期は食事を作るのも大変だということで、共同炊事と言って、大きな釜で、村のみんなの分の食事を煮炊きしていました。

 

旧出西国民学校の校舎。大社基地の設営隊本部が置かれていた=出雲市斐川町出西

 統制や食料供出の影響で、家にはほとんど米が残らんでした。ほとんど水みたいなおかゆを食べていました。それがきつくなってくると、カボチャや大根、イモでかさ増しさせていました。

兵隊が「小屋に隠れろ」
 まだ幼い子どもでしたので、戦争が怖いとか恐ろしいというのはそれほどありませんでしたが、空襲があった日(7月28日)のことは覚えています。その日は友人と川で水浴びをしていました。すると、飛行場や道路の建設に携わっていた兵隊さんがやってきて「あぶないから、飛行機が飛んでくるから、そこの小屋に隠れてろ」と言いました。

 小屋に隠れていると、やがて飛行機がやってきました。標高120~30メートルほどの山をすれすれに飛んできて、飛行場の西側の端に入っていきました。そして4~5秒後、バリバリバリ!と、機銃掃射の音が聞こえてきました。これははっきりと、耳に届きました。あとになり、飛行場を西から東へと攻撃したのだとわかりました。被害の大きさは、馬がひっくり返って死んだくらいだ、兵隊さんがなくなったとかいうことはないと聞かされましたが、あとになって、3人ほど亡くなっていたと知りました。