お母さんと子ども2人が野球場を訪れた。南海ホークスの代打で登場したのが「あぶさん」こと景浦安武選手。追い込まれながらもファウルで懸命に粘る。その間、お母さんは回想する。夫に逃げられ生活は苦しい。一家心中の前に、せめて子どもたちに大好きな野球を見せてやろうという気持ちだった▼あぶさんはなおもファウルでしのぐ。その姿に胸打たれ、勇気づけられたお母さんが生きる決意をしたところで、あぶさんが凡退する。10日に82歳で死去した漫画家・水島新司さんの代表作『あぶさん』のワンシーンだ▼どこか暗く、こてこてとした街角。水島さんの絵からは、南海が本拠地とした大阪のかつての様子が、ありありと伝わった。大都市で、社会に見捨てられたような人々に向けられるまなざしは優しかった▼水島さんは野球を理論的、写実的に捉えた作風で知られる。だが底に流れる主題は貧困ではなかったか。野球漫画の金字塔『ドカベン』の主人公・山田太郎は両親と死別し経済的に高校進学が危ぶまれたし、エース里中智の母は病弱。涙を浮かべ化粧まわしを質に出す相撲の親方も登場した▼貧困層に向けられる厳しい視線とともに小さな幸福も描かれ、読んでいてよく泣きそうになった。時代が変わり、あのような漫画はもう出ないだろう。令和まで生きた水島さんに失礼かもしれないが、昭和は遠くなりにけり、である。(板)