大梶七兵衛が斐伊川から荒木浜までの高瀬川造設の計画を練ったとされる旅伏山山頂から見える出雲平野=出雲市国富町
大梶七兵衛が斐伊川から荒木浜までの高瀬川造設の計画を練ったとされる旅伏山山頂から見える出雲平野=出雲市国富町

 出雲国風土記(733年編さん)の一文に、こうある。「出雲大川の両岸あたりは、土地が肥沃(ひよく)で五穀の作物や桑、麻が枝もたわわに実り、草木が茂って、人々の潤いの園である」-。

 「出雲大川」は現在の斐伊川を指す。太古から氾濫(はんらん)を繰り返し、その暴れっぷりからヤマタノオロチ伝説を生んだ島根県内でも有数の河川は、たび重なる洪水により上流部の中国山地から上質な土を運び、恩恵をもたらした。

 木の実や魚を取って食べる古代人の生活を大きく変えた、約2千年前の弥生時代とされる大陸からの稲作伝来。九州から各地へ広まる中、人々は土地と水を求め、根付いた。現代の土地開発に伴い、出雲市では湿田で履く田げたや農具を運ぶ田舟(海上遺跡)、土を掘り起こす農具「スキ」(姫原西遺跡)が発掘されている。額に汗をにじませる出雲人の姿を思い起こさせる。

▼たたらの副産物

 水の利用がしやすい大きな川と開けた土地、農耕の普及によって出現した「潤いの園」。今につながる成り立ちの元には「自然の恵み」とともに、さまざまな「先人の営み」がある。

 例えば、江戸時代に斐伊川上流部の島根県奥出雲町で盛んに行われた「鉄穴(かんな)流し」。たたら製鉄の原料となる砂鉄を採取するため山肌を削って水に流し、砂鉄と土砂を分ける方法だ。

 その「副産物」として下流域には大量の土砂が流れ着き、天井川となった斐伊川の氾濫により平野東部が拡大。土砂を生かし宍道湖を埋め立てた新田開発が、米どころの基盤となった。

 さらに、有名な開拓事業がある。中国山地の山々や三瓶山をバックに広がる出雲平野を、旅伏山(出雲市国富町、標高456メートル)から見下ろし、その計画が練られたという、現在の出雲市大社町荒木地区の開墾だ。

 郷土の偉人として県内の小学生の副読本に登場する大梶七兵衛(1621~89年)によって、強風が吹き付ける砂地の荒れ地で貧困を強いられる農民のため、斐伊川から荒木浜までの水路となる高瀬川(約11キロ)が築かれた。江戸時代の前期、1687年のことだ。

▼農業産出 県内一

 62年に松江藩から開墾の許可を得た七兵衛は、何万本もの植林による防風林に続き、農業用水路を完成させた。流域の田畑、年貢米などの物資を運ぶ水運、生活用水に利用され、藍染めを行う染め物屋も並んだ。

 89年には出雲国風土記に記されるもう一つの河川・神戸川から西へ延びる十間川の開削も終え、現在の古志町、知井宮町一帯のかんがい用水路とし、平野全体へ豊かさをもたらした。

 今、出雲市の山間部を含む農地面積(約5900ヘクタール)は県全体の約25%を占める。農業産出額(農林水産省まとめ、推計)は2020年126億7千万円で、島根県内で唯一100億円を超える。うちコメの47億4千万円は安来市(23億2千万円)の2倍超。青ネギ、アスパラガス、ブドウなどの栽培も盛んだ。

 七兵衛について小学生の郷土学習で伝える鎌田文雄さん(71)=出雲市大社町北荒木=は、その功績の意味をかみしめるように言う。「当時の人々の願いを具現化し、それが今につながっている」

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 広大で肥沃な土地によってもたらされる豊かさ、いにしえから受け継がれる営みと先人の献身、信仰によって形を成し、この地で育まれてきた出雲の「誇り」に迫る。

 (藤原康平)

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 出雲平野 東西約20キロ、南北最長約8キロ、総面積約137平方キロ。約4千年前の三瓶山の噴火によって神戸川(延長82キロ)を下った土砂が、島根半島にせき止められる形で堆積。主に平野西部を形作り、2千年後の弥生時代には生活のできる土地となった。東部では斐伊川(延長153キロ)の流れが寛永年間(1624~44年)の大洪水で、東の宍道湖へと向きを変え、新田開発が進んだ。