境―御来屋間 開通に尽力
山陰(さんいん)で初めての鉄道が、境(さかい)(現(げん)境港)―米子(よなご)―御来屋(みくりや)(鳥取県大山(だいせん)町西坪(にしつぼ))駅間に開通して、今年で120年になります。夢(ゆめ)だった鉄道敷設(ふせつ)に尽力(じんりょく)したのが、米子にゆかりの実業家、後藤(ごとう)快五郎(かいごろう)(1864~1927年)です。「山陰鉄道の父」と称(たた)えられており、功績(こうせき)にこたえて名前を冠(かん)した後藤駅や後藤総合(そうごう)車両所が米子市内に残っています。
快五郎は、今の安来(やすぎ)市広瀬(ひろせ)町宇波(うなみ)の小林(こばやし)家に生まれました。県立松江(まつえ)中学に学び、小学校の教員を経(へ)て23歳(さい)の時、米子の名門商家・後藤家の養子になります。
内(うち)町の後藤家は代々、海運業を営(いとな)んでいました。快五郎は事業意欲(いよく)が旺盛(おうせい)で、質屋(しちや)や倉庫、たばこなどの各事業を手がけ、次第(しだい)に財力(ざいりょく)を蓄(たくわ)えます。後藤家住宅(じゅうたく)は歴史(れきし)的建造(けんぞう)物として知られ、重要文化財(ぶんかざい)の指定を受けています。
山陰地方では1898(明治31)年、米子―境間の測量(そくりょう)と用地買収(ばいしゅう)が行われ、官設(かんせつ)鉄道敷設の動きが始まりました。しかし、鉄道敷設と米子駅の用地買収交渉(こうしょう)は反対が多く、難航(なんこう)をきわめます。
鉄道は海運業のライバルになる可能性(かのうせい)もありました。しかし、快五郎は「鉄道敷設ができなければ、米子の街にとって大きな損失(そんしつ)」と案じ、経済(けいざい)の発展(はってん)を第一に考えて、地元協議(きょうぎ)に取りかかりました。
その結果、市内の資産家(しさんか)が所有する湿地帯(しっちたい)を米子駅の用地として、鉄道局の申し出価格(かかく)で提供(ていきょう)してもらうことになりました。湿地帯の埋(う)め立て費用(ひよう)は快五郎が持ち山の土砂(どしゃ)を無償(むしょう)で差し出し、線路用地の一部も提供することで、建設工事の見通しが立ちました。
1900(明治33)年、起点の境から着工し、2年後の11月1日、大篠津(おおしのづ)、後藤、米子、淀江(よどえ)、御来屋までの6駅が開業します。
JR境線の馬場崎(ばばさき)町駅(境港市馬場崎町)から境港駅に向かって200メートルほど行った線路横が境駅の跡地(あとち)で、「山陰鉄道発祥之地(はっしょうのち)」の記念碑(きねんひ)が立っています。境駅はその後、境港駅に駅名が変更(へんこう)され、移転(いてん)して現在(げんざい)に至(いた)っています。
1912(明治45)年には、米子で山陰鉄道開通全国特産品博覧(はくらん)会が開かれ、快五郎は会長として成功に導(みちび)きました。
また山陰実業銀行を設立(せつりつ)したり、米子商工会の頭取(とうどり)にも就任(しゅうにん)し、米子の商工業発展(はってん)に大きな足跡(そくせき)を残しました。
米子市名誉(めいよ)市民に選定されています。