山本 幡男
山本 幡男
山本幡男の遺書など遺品が展示してある西ノ島ふるさと館のコーナー=島根県西ノ島町別府
山本幡男の遺書など遺品が展示してある西ノ島ふるさと館のコーナー=島根県西ノ島町別府
山本幡男顕彰之碑=島根県西ノ島町浦郷
山本幡男顕彰之碑=島根県西ノ島町浦郷
山本 幡男の歩み
山本 幡男の歩み
山本 幡男
山本幡男の遺書など遺品が展示してある西ノ島ふるさと館のコーナー=島根県西ノ島町別府
山本幡男顕彰之碑=島根県西ノ島町浦郷
山本 幡男の歩み

壮絶な生涯 本や映画に

 第2次世界大戦の終戦直後、ソ連(現(げん)ロシア)のシベリアに抑留(よくりゅう)された日本人捕虜(ほりょ)たちを収容所(しゅうようじょ)の中で励(はげ)まし続けて精神(せいしん)的(てき)支柱(しちゅう)となった人がいます。島根県西ノ島(にしのしま)町出身の山本(やまもと)幡男(はたお)(1908~54年)です。その壮絶(そうぜつ)な生涯(しょうがい)は、ノンフィクションの題材にもなりました。昨年12月には映画(えいが)が全国公開され、再(ふたた)び脚光(きゃっこう)を浴びています。

 幡男は、当時の県立松江(まつえ)中学校を経(へ)て現在(げんざい)の東京外国語大学でロシア語を学びました。中退(ちゅうたい)後の1936(昭和11)年、中国東北部の満州(まんしゅう)に渡(わた)って南満州鉄道部内の満鉄調査部(ちょうさぶ)に入社。語学力を生かしてソ連の社会、経済(けいざい)などに関する書物を執筆(しっぴつ)し、高い評価(ひょうか)を受けました。

 大戦末期の1944(昭和19)年に現地で召集(しょうしゅう)され、ロシア語に堪能(たんのう)なことから中国・ハルビン市のハルビン特務(とくむ)機関に配属(はいぞく)されます。大戦で日本が降伏(こうふく)した後、シベリアに抑留され、収容所をたらい回しにされました。

 寒さと過酷(かこく)な労働の日々を送りながらも、ひそかに俳句(はいく)、詩の会や万葉集(まんようしゅう)などの古典、仏教の学習会を開くなど仲間の捕虜を励まし、帰国への希望を与(あた)え続けました。

 しかし、がんで余命(よめい)がいくらもないと分かります。仲間たちに勧(すす)められ遺書(いしょ)を書きましたが、文書類を持ち帰ることはスパイ行為(こうい)となり禁止(きんし)されているため、ノート15ページ分もの遺書を数人が分担(ぶんたん)し暗記などして帰国。埼玉(さいたま)県内の家族を訪(たず)ねて伝えたが、最後の一人が届(とど)けたのは33年後でした。

 この実話は、作家辺見(へんみ)じゅんがノンフィクション「収容所(ラーゲリ)から来た遺書」と題して出版(しゅっぱん)(1989年)しました。

 映画「ラーゲリより愛を込(こ)めて」は、嵐(あらし)の二宮(にのみや)和也(かずなり)さんと北川(きたがわ)景子(けいこ)さんが主演(しゅえん)し上映。全国的に大きな反響(はんきょう)を呼(よ)びました。

 地元でも、有志(ゆうし)が「山本幡男を顕彰(けんしょう)する会」を設立(せつりつ)して2000年、摩天崖(まてんがい)の駐車場(ちゅうしゃじょう)に顕彰碑(けんしょうひ)を建設。昨年10月には、少年時代を過(す)ごした生家跡(あと)に顕彰碑と木製(もくせい)案内板を設置しました。

 また、幡男など郷土(きょうど)の偉人(いじん)や歴史(れきし)をテーマに西ノ島中学校の生徒が、ふるさと演劇(えんげき)の発表会を開催(かいさい)。別府(べっぷ)港の西ノ島ふるさと館には、幡男の遺書などの遺品が展示(てんじ)してあります。

 写真はいずれも西ノ島町観光協会提供(ていきょう)。