国のかたちを左右する政策の大転換にもかかわらず、審議を尽くさない国会、異論や疑問に真正面から向き合わない政権、自分たちの代表を選ぶ貴重な機会ながら投票率の低下が止まらない選挙…。私たちはいま、この国の民主主義が根幹から揺らぎ、崩れつつある過程を目撃している。
大統領選の結果を認めず「国家を欺こうと企てた罪」で前大統領が起訴された米国の出来事は、対岸の火事ではない。為政者も市民も、民主主義の価値をもう一度問い、立て直しに踏み出すときだ。
インターネットやSNS(交流サイト)の飛躍的な浸透がもたらす社会の分断は、一段と深刻になった。自身の考えに近い声ばかりに接し、異なる意見を聞こうとはしない。勇ましい言葉がもてはやされ、〝敵〟を激しく攻撃して爽快感を味わう風潮がまん延し、すさんだ光景が広がる。
本来ならばこうした状況を抑え、多様な価値観を束ねなければならないはずの政治は、敵か味方かを明確に区別する手法がまかり通り、それに拍車をかける。特定の政党の存在を公然と否定する発言まで飛び出し、政権自身が衆院解散・総選挙をあおり、権力をもてあそぶ振る舞いを繰り広げた。
3年余りの新型コロナウイルスとの闘いがそうであったように、人口減少や少子高齢化の加速という「国難」に立ち向かうには与党も野党もない。英知を結集して「解」を探り、幅広い合意を取り付けていくのが政治の役割だ。旧民主党政権時代、与党と当時の野党の自民、公明両党が「社会保障と税の一体改革」に合意した歴史は、内容の評価は割れても、政治の営みとして参考になるのではないか。
ところが現実は、政権与党の枠組みの中だけで意思決定し、国会に提案しても短期間の審議で済ませ、数の力で押し切ることが常態化している。言論の府の権威や機能は地に落ちた、と評されても仕方あるまい。
私たち主権者の責任も重大である。今月6日の埼玉県知事選の投票率は、全国の知事選史上最低の23・76%だった。730万人余りの地域のリーダーを決める民主主義の土台をなす選挙に参加したのが、4人に1人にも満たない「23%民主主義」は衝撃的だ。酷暑も要因とはいえ「1票を投じても何も変わらない」と考えているのは明白で、政治離れが一段と進んだことを物語る。自分たちの問題は自分たちで解決するという主権者の自覚を確認したい。
2年前、岸田文雄首相が自民党総裁選に立候補表明した際、民主主義への強い危機感を示して「聞く力」を訴えたが、この間、事態が少しでも改善したとは言い難い。
米ハーバード大のスティーブン・レビツキー教授らが共著の『民主主義の死に方』で、民主主義を守る「柔らかいガードレール」として挙げた、相互的寛容と自制心という二つの規範は日本でも間違いなく薄らぐ。政治に求められるのは、まさに包摂の精神に基づく寛容さ、異論にも真摯(しんし)に耳を傾け、巻き込む度量ではないか。それが政治家の器量でもある。
ロシアや中国など権威主義が跋扈(ばっこ)する時代だからこそ、民主主義の価値を大切にしたい。時間がかかっても、さまざまな意見もくむプロセスが民主主義の真骨頂だ。為政者はその手間暇を惜しんではならない。