浜田市真光町に生まれた大島幾太郎(1871~1949年)は教育者であり、地域の歴史研究に大きな功績を残した郷土史家です。
幾太郎は幼い頃から勉強が好きで、島根県の特別な試験で一等賞を取るほど成績優秀でした。学校を卒業後に通った学習塾に、後の演劇評論家、島村抱月(本名・佐々山滝太郎)がいました。二人は仲が良く、抱月は「東京の大学に入り文学の勉強をしたい」、幾太郎は「浜田で先生になるつもりだ」と互いの夢を語り、励まし合って勉強したそうです。
幾太郎は目標通り、20歳で那賀郡郷田小学校(現江津市)の教員となりました。その後、石見村原井小学校(当時)などを経て、1901(明治34)年に邑智郡矢上小学校の校長に就きました。30歳の若さでした。
学校では式に遅れた村長を待たずに時間厳守で開会し、終わるまで村長を会場に入れなかったという逸話があり、若くても気後れすることなく毅然としていたことがうかがい知れます。
受け持った授業は楽しく分かりやすいと評判でした。小学校だけにとどまらず、教育を十分に受けられなかった青年たちが昼間に働きながら学べるよう夜間学校も開きました。幾太郎は勉強の本を買うため、縄をなって売ったお金をためたそうです。教え子や地域の人々から敬愛され、1937(昭和12)年に功績をたたえる頌徳碑が建立されました。
1928(昭和3)年に教員をや辞めてからは郷土史の研究に打ち込みました。執筆した郷土史本は二十数冊に上り、代表的なものに「浜田町史」「那賀郡誌」「石見家系録」があります。
「竹島事件史」もその一つで、江戸幕府が禁じた海外貿易を行い処刑された今津屋(会津屋)八右衛門について、苦しい浜田藩の財政を救うため立ち上がった偉人としてスポットを当てました。
1949(昭和24)年2月に79歳で亡くなった幾太郎の墓は、浜田市大辻町の宝福寺にあります。背面には矢上小時代の教え子で参議院議員となった山本利寿の碑文があり、こう結ばれています。「地方史の研究に尽瘁せられた其の功績は永久不滅のものである」(吉田雅史)
▽大島太郎の歩み
1871年 浜田市真光町に生まれる
1891年 郷田小学校で教員になる
1916年 「那賀郡誌」を発行
1928年 教員を退職
1935年 「竹島事件史」を発行
1949年 死去