浜山南側の松林の中にある井上恵助の頌徳碑=三角点付近
浜山南側の松林の中にある井上恵助の頌徳碑=三角点付近
松林が広がる浜山の山中=出雲市浜町
松林が広がる浜山の山中=出雲市浜町
浜山南側の松林の中にある井上恵助の頌徳碑=三角点付近
松林が広がる浜山の山中=出雲市浜町

 出雲(いずも)平野西側に見える小高い浜山(はまやま)。松林に覆(おお)われた高さ40数メートル、南北約2・5キロ、最大幅(はば)約1キロの山には、運動公園もあり、大勢(おおぜい)の人が訪(おとず)れます。しかし、江戸(えど)時代中頃(ごろ)までは草木も生えない砂丘(さきゅう)でした。その地を深いふるさと愛と高い志(こころざし)のもと、22年かけて緑の松林へと変えたのが、井上恵助(いのうええすけ)(1721~94年)でした。

 恵助は、高(たか)浜(はま)村(現在(げんざい)の出雲市浜町)で、年寄役(としよりやく)井上五左衛門(ござえもん)の長男として生まれました。

 浜山一帯は、海岸に打ち上げられた砂(すな)が長い年月をかけてたい積(せき)してできました。川砂と違(ちが)って、日本海から吹(ふ)き付ける西風によって舞(ま)い上がるほどのきめ細かい砂だったので、水はけも良すぎて、コメや野菜を作るのに適(てき)しませんでした。

 恵助が植林に立ち上がったのは、夫婦(ふうふ)で松江(まつえ)の武家(ぶけ)に奉公(ほうこう)していた36歳(さい)の時。当時の松江藩(はん)は浜山に防砂林(ぼうさりん)を造(つく)ろうと、何度も試みては失敗していました。このため、奉公先の主人が才能(さいのう)を見込(みこ)んでいた恵助に植林を勧(すす)めました。

 故郷(こきょう)に戻(もど)った恵助は1757(宝(ほう)暦(れき)7)年、砂地に松を植える研究に取り組みました。植える穴(あな)の深さや苗(なえ)の大きさ、根元を包む山土の量、夏場に水不足で枯(か)らさないための対策(たいさく)など、苦労はしましたが、試し植えから22年で約115ヘクタールの広さに松90万本や柳(やなぎ)1万5千本、ネムノキやアサドリなどを植えました。

 根付き、成長した草木は防風林、防砂林となり、人が暮(く)らし、農作物もできる土地に変えました。かき集めた松の落ち葉は燃料(ねんりょう)にもなり、人々の生活に多くの恵(めぐ)みをもたらしました。

 恵助の成功には、砂がくずれ落ちるのを防(ふせ)ぐ砂留垣(すなどめがき)造りや、保水力(ほすいりょく)がある「藻(も)かす」という土を苗の根元に一緒(いっしょ)に植えるなど、優(すぐ)れたアイデアがありました。

 そして、最大の要因(よういん)は、国禁(こっきん)とされていた「富(とみ)くじ興行(こうぎょう)」を、松江藩に認(みと)めさせたことでした。それによって、大量の苗木を買う資金(しきん)ができたのです。

 浜山には、恵助の功績(こうせき)をたたえる顕彰碑(けんしょうひ)や頌徳碑(しょうとくひ)が立ち、今も地元の高松(たかまつ)地区の人たちによる保護(ほご)活動が続けられています。

(土(つち)谷(や)康(やす)夫(お))

 

 井上恵助の歩み

1721(享保(きょうほう)6)年 高浜村に生まれる

  56(宝暦(ほうれき)6)年 植林を決意し故郷の高浜村に戻る

  57(宝暦7)年 浜山で松の試植を始める

  63(宝暦13)年 本植え開始

  78(安永(あんえい)7)年 浜山の植林事業が完成

  94(寛政(かんせい)6)年 死去(しきょ)