津和野町にある堀田仁助の墓
津和野町にある堀田仁助の墓
堀田仁助が作った地図「従江都至東海蝦夷地針路之図」
堀田仁助が作った地図「従江都至東海蝦夷地針路之図」
津和野町にある堀田仁助の墓
堀田仁助が作った地図「従江都至東海蝦夷地針路之図」

▽船上から地形観測、針路導く

 初めて日本地図を作った人物といえば、「伊(い)能(のう)忠(ただ)敬(たか)」と習ったのではないでしょうか? 実はこの伊能忠敬よりも先に、蝦(え)夷(ぞ)地(現(げん)在(ざい)の北海道)を測(そく)量(りょう)して地図を作った人物が津(つ)和(わ)野(の)藩(はん)にいました。藩(はん)士(し)の一人、堀(ほっ)田(た)仁(に)助(すけ)(1745~1829年)です。

 仁助は津和野藩蔵(くら)屋(や)敷(しき)に務(つと)める役人の長男として、津和野藩の御船屋敷(おふなやしき)(現在の広島県廿日(はつか)市(いち)市)で生まれました。伊能忠敬と同い年です。

 15歳(さい)のときに家(か)督(とく)を継(つ)いで藩に仕(つか)えます。幼(おさな)いころから勉強熱心で、算(さん)術(じゅつ)(現在の算数)に興(きょう)味(み)を持っていた仁助は、大変優(ゆう)秀(しゅう)だったといいます。17歳のころには津和野勘(かん)定(じょう)所(しょ)見習いとなり、後に江(え)戸(ど)の藩の屋敷で務めました。

 津和野に戻(もど)っていた1782(天(てん)明(めい)2)年、幕(ばく)府(ふ)から、天文学や暦(れき)学、測量学などを研究する機関「天(てん)文(もん)方(かた)」に勤(つと)めるようにとの命が下されます。仁助は西洋の天文学を取り入れた新たな暦(こよみ)づくりに励(はげ)むなど、最新の学問に触(ふ)れ知(ち)識(しき)を深めていきました。

 99年、幕府からまたもや命令を受けます。直(ちょっ)轄(かつ)地(ち)となっている東蝦夷地と江戸を結ぶ安全な航(こう)路(ろ)の開(かい)拓(たく)です。人や物(ぶっ)資(し)を大量に輸(ゆ)送(そう)するためで、相次いで蝦夷地などに来航する諸(しょ)外国船の接(せっ)近(きん)に幕府が危(き)機(き)感を抱(いだ)いたからでした。

 54歳の仁助にとって、この測量の旅は大変なものでした。船に乗って江戸を出発した仁助は、他のメンバーとともに船上から天体や海岸の地形を観測。緯(い)度(ど)も測(はか)りながら船の位置や針(しん)路(ろ)を導(みちび)いていきました。帰りは陸路で海岸線を測量しながら進み、約5カ月後に江戸に帰りました。

 江戸に戻った仁助は、結果をもとに地図を作りました。これが「従江都至東海蝦夷地針路之図(こうとよりとうかいをえぞちにいたるしんろのず)」です。伊能忠敬にも影(えい)響(きょう)を与(あた)えたとされ、現在も津和野町郷(きょう)土(ど)館(かん)(津和野町森(もり)村(むら))で見ることができます。

 その後長く務めた幕府天文方を辞(じ)し、82歳のときに津和野に帰ってきます。少しの間、津和野藩の藩校「養(よう)老(ろう)館(かん)」で数学を教えていたそうです。そして84歳で生(しょう)涯(がい)を終えました。仁助について調べてきた仁助の8代目子孫の佐(さ)々(さ)木(き)良(よし)子(こ)さん(75)=益(ます)田(だ)市須(す)子(こ)町=は「地味だけどこういう面白い仕事をしていたんだと、仁助のことを知ってくれたらうれしい」と話しました。

 (藤(ふじ)本(もと)ちあき)

 

▽堀田仁助の歩み

1745年 現在の広島県廿日市市に生まれる

  62年 津和野に移(うつ)り、勘定所見習いとなる

  99年 幕府から江戸と蝦夷地を結ぶ航路の開拓を命じられ、測量し地図を作成する

1829年 亡(な)くなる