▽鉄穴流し応用 海運業も営む
今から約300年前、現在(げんざい)の安来(やすぎ)市荒島(あらしま)地区に、自分の財産(ざいさん)を投じ16年かけて、面積3万7千平方メートルの水田を造(つく)った人物がいました。名を卜蔵(ぼくら)孫三郎(まごさぶろう)(1696~1755年)といい、水田は「卜蔵新田(しんでん)」と呼(よ)ばれています。地元では今も、偉業(いぎょう)を後世に伝えようと取り組んでいます。
孫三郎は、仁多郡竹崎(にたぐんたけざき)村(現(げん)・島根県奥出雲(おくいずも)町竹崎)で、たたら製鉄(せいてつ)を営(いとな)む家の次男に生まれました。
時は8代将軍(しょうぐん)徳川吉宗(とくがわよしむね)の世。江戸(えど)幕府(ばくふ)や松江藩(はん)など多くの藩がお金に困(こま)り、収入源(しゅうにゅうげん)となる年貢米(ねんぐまい)を増(ふ)やそうと、新田開発や治水(ちすい)事業を奨励(しょうれい)していました。
新田造(づく)りは、孫三郎が出雲(いずも)大社に参る途中(とちゅう)、中海に面して広がる「日白池(ひじらいけ)」に寄(よ)ったのがきっかけでした。機械もなくすべて人力の時代。池は以前も埋(う)めようと試みられましたが、最も深い所で3メートルくらいあり、実現しませんでした。
孫次郎は池を埋め田んぼにしようと決心。1721年、家は弟に継(つ)がせて当時の能義(のぎ)郡荒島村に移(うつ)り住み、松江藩の許可(きょか)を得(え)るなど準備(じゅんび)。23年から工事を始めました。
工事では山の土砂(どしゃ)を効率(こうりつ)よく池へ運ぶため、たたら製鉄で砂鉄(さてつ)を採(と)る「鉄穴(かんな)流(なが)し」を応用(おうよう)しました。池から8・7キロ離(はな)れた高清水(たかしみず)神社(現・松江市東出雲(ひがしいずも)町下意東(しもいとう))のわき水と羽入川(はにゅうがわ)の水を利用。山や谷に水路を通して泥水(どろみず)を池に送り、埋めていきました。
孫三郎は日白池のほかにも、中海南岸各地で新田を開発し、道路や港も直すなどしました。船を買って海運業も営み、産業発展(はってん)に尽(つ)くしました。松江藩はその功績(こうせき)を認(みと)め、民間人では最高位の「下郡(したごおり)」という郡役人(ぐんやくにん)に任命(にんめい)しました。
卜蔵新田は、たたら製鉄ゆかりの地として、日本遺産(いさん)に認定(にんてい)される「出雲國(いずものくに)たたら風土記(ふどき)」の構成文化財(こうせいぶんかざい)になっています。
地元の荒島地区活性化(かっせいか)推進(すいしん)協議会(きょうぎかい)は2000年、孫三郎の偉業をまとめた顕彰資料集(けんしょうしりょうしゅう)を発行。創作劇(そうさくげき)の上演(じょうえん)や顕彰碑(ひ)も建立(こんりゅう)しました。毎年秋に開く古代出雲(いずも)王陵(おうりょう)の丘(おか)健康ウオークでは、卜蔵新田もコースに取り入れています。
孫三郎について、推進協議会会員で顕彰資料集の編集(へんしゅう)に携(たずさ)わった佐々木弘(ささきひろし)さん(79)は「資金力(しきんりょく)と、松江藩と交渉(こうしょう)する政(せい)治(じ)力、土木技術(ぎじゅつ)や指(し)導(どう)力に卓越(たくえつ)した人物だった」と話します。
(土谷康夫(つちややすお))
【卜蔵孫三郎の歩み】
1696年 仁多郡竹崎(にたぐんたけざき)村に生まれる
1721年 分家(ぶんけ)して能義(のぎ)郡荒島(あらしま)村に移住(いじゅう)
松江藩(まつえはん)に日白池(ひじらいけ)の埋(う)め立てを願い出る
23年 新田造(しんでんづく)りに着工
39年 新田が完成
55年 59歳(さい)で亡(な)くなる