▽勝率9割6分、史上最強力士
大相撲(おおずもう)史上(しじょう)最強といわれた力(りき)士(し)が、江戸(えど)時代の松江藩(まつえはん)にいました。雷電(らいでん)為(ため)右衛(え)門(もん)(1767~1825年)です。254勝10敗の勝率(しょうりつ)9割(わり)6分(ぶ)2厘(りん)を誇(ほこ)り、白鵬(はくほう)も大鵬(たいほう)も及(およ)ばないナンバーワンです。16年間、大関(おおぜき)を務(つと)めました。
為右衛門は、現在(げんざい)の長野県東(とう)御(み)市の農家に生まれ、幼名(ようめい)を太郎吉といいました。幼(おさな)いころから体格(たいかく)に恵(めぐ)まれ、14、15歳(さい)の時には、すでに身長が180センチを超(こ)え、怪力(かいりき)が知れわたっていました。
大関・谷風梶之助(たにかぜかじのすけ)の内弟子(うちでし)になった4年後の1788(天明(てんめい)8)年、松江松平(まつだいら)藩第7代藩主、松平治郷(はるさと)(号・不昧(ふまい))の時代に21歳で藩のお抱(かか)え力士になり、雷電為右衛門と名乗りました。その2年後、江戸(現在の東京)大相撲でいきなり西の関脇(せきわけ)に付け出され、デビュー。8勝2預(あず)かり(物言いがついて無勝負になること)で初優勝(ゆうしょう)。その名が一躍(いちやく)、全国にとどろきました。
1795(寛政(かんせい)7)年、大関になり、引退(いんたい)するまでその地位を守りました。26歳から37歳までの11年間で43連勝、44連勝、38連勝の三つの大きな連勝記録を残しています。
1811(文化(ぶんか)8)年、44歳で引退するまでの21年間に出場した35場所で、ほとんど負けない力士でした。
勝率は驚異的(きょういてき)で、谷風梶之助(9割4分9厘)、松江出身の横綱(よこづな)・陣幕(じんまく)久五郎(きゅうごろう)(9割2分4厘)、白鵬(8割2分8厘)、大鵬(8割2分7厘)などを上回っています。
最高時の体格は身長197センチ、体重が172キロあったといわれています。あまりに強すぎてけがをする力士が続出し、張(は)り手、鉄砲(てっぽう)(突(つ)っ張り)、閂(かんぬき)が禁(きん)じ手にされたほどでした。横綱になれなかった理由はいろいろと推測(すいそく)されていますが、不明です。
引退後は、松江藩の水軍(すいぐん)の一員として城下の御船屋(おふなや)(現在の東本町(ひがしほんまち))に住み、後進力士の指導(しどう)に努めました。「御船屋分見(ぶんけん)絵図(えず)」記載(きさい)の屋敷(やしき)の中に「関(せき)為右衛門」(雷電為右衛門の本名)の名前があります。
1825(文政8)年、江戸で58歳(さい)で亡くなりました。
松江藩主の菩提寺(ぼだいじ)である松江市外中原(そとなかばら)町の月照寺(げっしょうじ)には、為右衛門の手形を彫(ほ)った顕彰碑(けんしょうひ)があり、同市和多見(わだみ)町の西光寺(さいこうじ)にはお墓(はか)が再建(さいけん)されています。(重原伸一(しげはらしんいち))
【雷電為右衛門の歩み】
1767年 長野県東御市に生まれる
88年 松江松平藩のお抱え力士になる
90年 江戸大相撲で関脇デビュー
95年 大関となる
1811年 引退願が認(みと)められる