現在の江津市和木町。小川八左衛門は砂浜が海に延びて地続きになっている真島(奧左端)から東側の開拓を進めた
現在の江津市和木町。小川八左衛門は砂浜が海に延びて地続きになっている真島(奧左端)から東側の開拓を進めた
和木村の開拓事業を行った小川八左衛門
和木村の開拓事業を行った小川八左衛門
現在の江津市和木町。小川八左衛門は砂浜が海に延びて地続きになっている真島(奧左端)から東側の開拓を進めた
和木村の開拓事業を行った小川八左衛門

▽和木(津江)の砂丘を開拓 広大な農地創出

 生活水準向上し人口3倍増(明治元年)

 

 江(え)戸(ど)後期から明治初期、日本海沿(ぞ)いの浜(はま)辺(べ)が広がる和(わ)木(き)村(現(げん)・江(ごう)津(つ)市和木町)に約50万平方メートルの広大な耕(こう)作(さく)地(ち)を開(かい)拓(たく)した人がいました。当時、和木村の庄(しょう)屋(や)を務(つと)めていた小(お)川(がわ)八(はち)左(ざ)衛(え)門(もん)(1824~79年)です。砂(さ)鉄(てつ)を採(と)る鉄穴(かんな)流しの泥(でい)土(ど)を活用し、不毛な砂(さ)丘(きゅう)地帯を豊(ゆた)かな農地へと生まれ変わらせました。

 八左衛門は、公(く)家(げ)の流れをくむ小川家の第37代当主。島根県邑(おお)南(なん)町井(い)原(ばら)をはじめ、各地でたたら製(せい)鉄(てつ)を経(けい)営(えい)し、漁業や海運、石(いわ)見(み)焼(やき)、炭焼きなども手(て)掛(が)けてきた家です。代々、小川家は浜辺の荒れ地の開拓を行ってきましたが、八左衛門が大きく進めました。

 開拓地は砂浜が海に延(の)びて地続きになっている真(ま)島(しま)の東側。江津市民ゆかりの島(しま)の星(ほし)山(やま)の麓(ふもと)で、たたらの原料の砂鉄を採る鉄穴流しを行います。出た泥土を木の樋(おけ)を作って運び、砂丘に流し込(こ)んで3尺(しゃく)(約90センチ)ため、1尺(約30センチ)に沈(ちん)殿(でん)乾(かん)燥(そう)するのを待ち、上に砂を敷(し)いて耕地にするという方法です。海岸沿いには垣(かき)を設(もう)け、松の苗(なえ)を植え防(ぼう)風(ふう)砂(さ)林(りん)も作りました。

 江津市などによると、1759(宝(ほう)暦(れき)9)年に463人だった和木村の人口は、新たな農地と漁業振(しん)興(こう)など住む人たちの暮(く)らしを向上させたことで、1868(明治元)年には1526人に増(ふ)えたといいます。村外から移(うつ)り住んだ人は少なく、村内の生活水(すい)準(じゅん)が上がり、次々に分家が生まれたことが大きかったようです。その後、農地は住(じゅう)宅(たく)地や工業用地に用(よう)途(と)を変えていきます。

 小川家には八左衛門が砂丘で陣(じん)頭(とう)指(し)揮(き)を執(と)る姿(すがた)を写した写真、愛用のシルクハット、泥の深さを測(はか)る目(め)盛(も)りを刻(きざ)んだ開拓用くわが残っています。第42代当主の妻(つま)の小川敬(きょう)子(こ)さん(78)は「私(し)利(り)私(し)欲(よく)なく、住む人々の生活の向上を願い進めたのが開拓事業でした」と話し、当時の地(ち)域(いき)リーダーとしての行動をたたえています。

 

▽小川八左衛門の歩み

1824年 島根県川本町因原(いんばら)に生まれる

 41年 17歳(さい)で小川家第37代当主となる

 52年 鉄穴流しで出た泥土を使った開拓を始める

 79年 55歳で亡(な)くなる和木村の開拓事業を行った小川八左衛門

 

 (村(むら)上(かみ)栄(えい)太(た)郎(ろう))