3代目周藤弥兵衛の遺徳をたたえ、小松電機産業 人間自然科学研究所の小松昭夫・会長兼社長が建立した銅像=松江市八雲町日吉、意宇川沿いの日吉親水公園付近
3代目周藤弥兵衛の遺徳をたたえ、小松電機産業 人間自然科学研究所の小松昭夫・会長兼社長が建立した銅像=松江市八雲町日吉、意宇川沿いの日吉親水公園付近
周藤弥兵衛家が住民らの協力を得て、意宇川を数世代にわたって切り開いた「日吉の切り通し」=松江市八雲町日吉。旧八雲村(現八雲町)発行「周藤弥兵衛」から転載
周藤弥兵衛家が住民らの協力を得て、意宇川を数世代にわたって切り開いた「日吉の切り通し」=松江市八雲町日吉。旧八雲村(現八雲町)発行「周藤弥兵衛」から転載
3代目周藤弥兵衛の遺徳をたたえ、小松電機産業 人間自然科学研究所の小松昭夫・会長兼社長が建立した銅像=松江市八雲町日吉、意宇川沿いの日吉親水公園付近
周藤弥兵衛家が住民らの協力を得て、意宇川を数世代にわたって切り開いた「日吉の切り通し」=松江市八雲町日吉。旧八雲村(現八雲町)発行「周藤弥兵衛」から転載

 ▽数世代かけ日吉切り通し(松江・八雲)開削

 江戸(えど)時代に田畑、山林などの私財(しざい)をなげうって、現在(げんざい)の松江市八雲(やくも)町日吉(ひよし)地内で蛇行(だこう)していた意宇川(いうがわ)の流れを変え、たび重なる水害から住民や田畑を守った人がいました。3代目周藤(すとう)弥兵衛(やへえ)(1651~1752年)です。住民有志(ゆうし)らが顕彰会(けんしょうかい)をつくって今なお、功績(こうせき)をたたえています。

 周藤家は初代弥兵衛以降(いこう)、当時の意宇郡(おうぐん)67村を束(たば)ね、事務(じむ)を司(つかさど)る下郡役(したごおりやく)を務(つと)める大庄屋(だいしょうや)でした。

 意宇川は、八雲町と安来(やすぎ)市広瀬(ひろせ)町との境(きょう)界(かい)の天狗山(てんぐやま)に源(みなもと)を発し、中海に注いでいます。長さは約16キロ、川幅(かわはば)は広いところで約54メートルにも及(およ)ぶ大きな川です。

 日吉では初代弥兵衛の時代も意宇川一帯は10年間で4度の洪水(こうずい)に見舞(みま)われて田畑が荒(あ)れ、村人は生活に苦しんでいました。

 初代弥兵衛は1649(慶(けい)安(あん)2)年、「意宇川の洪水を防(ふせ)ぐには、川をまっすぐにするしかない」と松江藩(はん)に剣山(つるぎさん)を切り抜(ぬ)く「日吉切(き)り通(どお)し」工事を申請(しんせい)。翌年(よくねん)、第1期工事の着手が命じられ、高さ、横幅(はば)とも約13メートルにわたって、固い花(か)こう岩(がん)でできた剣山を切り抜く難(なん)工事が始まりました。

 2年後に完成しましたが、そのわずか2年後に大雨が濁流(だくりゅう)となって日吉切り通しに襲(おそ)いかかり、掘削(くっさく)規模(きぼ)が小さかったため堤防(ていぼう)が決壊(けっかい)して、また元の状態(じょうたい)に戻(もど)ってしまいました。松江藩には何度も切り通しの工事を陳情(ちんじょう)しますが、藩財政(ざいせい)が苦しく応(おう)じてもらえませんでした。

 3代目弥兵衛は「もっと川幅を広くしなければ…。自分がやるしかない」と覚悟(かくご)を決め、自費(じひ)での工事を藩に申し出ます。翌1706(宝永(ほうえい)3)年、55歳(さい)になった弥兵衛は、第2期工事に着手しました。

 3代目弥兵衛は1713(正徳(しょうとく)3)年に出家(しゅっけ)して「良刹(りょうせつ)」を名乗ります。財産(ざいさん)を処分(しょぶん)して作業者の賃金(ちんぎん)など工事費(こうじひ)にあて1747(延享(えんきょう)4)年、ようやく第2期工事が完成しました。初代弥兵衛が着工してから97年が経(た)ち、3代目弥兵衛は96歳になっていました。5年後、文字通り命をかけた3代目弥兵衛は101歳の天寿(てんじゅ)を全(まっと)うしました。

 その後、6代目弥兵衛が切り通し拡幅(かくふく)の第3期工事を引き継(つ)ぎ、現在の高さ約24メートル、川幅約30メートルの切り通しができたおかげで、これ以降、日吉地区は大規模(だいきぼ)な水害から守られています。

 「周藤弥兵衛顕彰会」は、弥兵衛のお墓(はか)、切り通し周辺の環境(かんきょう)美化や研(けん)修(しゅう)活動に取り組んでいます。

 (重原(しげはら)伸一(しんいち))

 ※ ※ ※

 ■3代目 周藤弥兵衛の歩み

1650年 日吉切り通し第1期工事始まる

  51年 3代目周藤弥兵衛が、現在の松江市八雲町日吉に生まれる

1706年 弥兵衛が第2期工事に着手

  47年 第2期工事が完工

  52年 弥兵衛が101歳で亡(な)くなる