

▽初代会長務め医療の礎築く
島根県内の多くのお医者さんが所(しょ)属(ぞく)する組(そ)織(しき)「島根県医(い)師(し)会」。これを初めてつくり、初代会長を務(つと)めたのが、現在(げんざい)の邑南(おおなん)町出身の日(ひ)高(だか)忠(ただ)男(お)(1896~1974年)です。医者でありながら政(せい)治(じ)家(か)として活動したこともある、ちょっと珍(めずら)しい経(けい)歴(れき)の人物です。
忠男は合(がっ)併(ぺい)前の旧(きゅう)瑞(みず)穂(ほ)町の生まれです。父は瑞穂町との合併前にあった田(た)所(どころ)村の6代目村長を務めた人で、兄弟はのちに島根大教(きょう)授(じゅ)や大阪府河(かわ)内(ち)長(なが)野(の)市の市長、島根県議になった、とても優(ゆう)秀(しゅう)な一家でした。
出(いず)雲(も)市の杵(き)築(つき)中学校(今の大社高校)を卒業してからは、京都帝(てい)大(だい)(今の京都大)医学部で学びました。忠男はとても頭が良く、首席の成(せい)績(せき)を収(おさ)め、特待生の扱(あつか)いを受けたそうです。
大学卒業後は和歌山県の病院で病院長などを務めましたが、1931(昭和6)年に松(まつ)江(え)市に帰り、日高医院を開業。県民のために医(い)療(りょう)に従(じゅう)事(じ)する一方で「戦後の医者の権(けん)利(り)を確(かく)立(りつ)するためには組織が必要だ」との思いがありました。そこで47(昭和22)年、同じ考えのお医者さんたちを集めて県医師会をつくり、県内医療の礎(いしずえ)を築(きず)きました。
この功(こう)績(せき)をたたえて忠男の胸(きょう)像(ぞう)が作られ、松江市袖(そで)師(し)町の島根県医師会館に長年置かれました。
頭(ず)脳(のう)、人(ひと)柄(がら)ともに優(すぐ)れた忠男でしたが、政治家としては不運でした。46(昭和21)年、戦後初の衆(しゅう)院(いん)選(せん)に立(りっ)候(こう)補(ほ)しましたが、350票差で落選。52(昭和27)年10月の衆院選では見事当選を果たしたものの、翌(よく)年(ねん)3月、当時の吉(よし)田(だ)茂(しげる)首相が答(とう)弁(べん)中に暴(ぼう)言(げん)を吐(は)いたことで国会解(かい)散(さん)に。国会議員としての活動はわずか6カ月となりました。
忠男はこのまま政界に復(ふっ)帰(き)せず、郷(きょう)土(ど)での活動に専(せん)念(ねん)します。医院を息(むす)子(こ)に託(たく)し、肢(し)体(たい)の不自由な子に関わる団(だん)体(たい)の役員などを務め、78歳(さい)で亡(な)くなるまで県民に奉(ほう)仕(し)する姿(し)勢(せい)を貫(つらぬ)きました。
2022年には、忠男のふるさとである邑南町鱒(ます)渕(ぶち)の住民からの要望で、忠男の胸像が町の西鱒渕会館に移(うつ)されました。忠男は今も、多くの人のために奉仕を続けた優(やさ)しいまなざしで、ふるさとの地を見つめていることでしょう。
(吉(よし)野(の)仁(ひと)士(し))
▽日高 忠男の歩み初
1896年 現・邑南町鱒渕に生まれる
1922年 京都帝大医学部を卒業
31年 松江市に帰郷、日高医院を開業
47年 島根県医師会を設立
52年 衆院選で初当選