江(え)戸(ど)時代、松(まつ)江(え)藩(はん)の御(ご)用(よう)窯(がま)を創(そう)業(ぎょう)し、その後の出(いず)雲(も)の茶陶(ちゃとう)の草分けとなるのが倉崎(くらさき)権(ごん)兵(べ)衛(え)(生年不(ふ)詳(しょう)~1694)です。現在(げんざい)まで約350年間続く出雲焼楽山(らくざん)窯(=楽山焼、松江市西(にし)川(かわ)津(つ)町)の開(かい)祖(そ)です。
権兵衛が松江藩で陶器づくりを始めるようになったのは、第2代藩主の松(まつ)平(だいら)綱(つな)隆(たか)が松江藩に窯をつくりたかったことが理由です。綱隆は書(しょ)画(が)に造詣(ぞうけい)が深く、御(お)山(やま)や御(お)立(たて)山(やま)とも呼(よ)ばれていた楽山に山(さん)荘(そう)を構(かま)える文化人でした。
綱隆は、陶器づくりが盛(さか)んで縁(えん)があった萩(はぎ)藩(今の山口県萩市中心の藩)に陶工の人選をお願いしましたが、40代半ばで急死しました。そのため、権兵衛が選ばれて実際(じっさい)に松江に入国したのは1677(延(えん)宝(ぽう)5)年、第3代藩主・綱(つな)近(ちか)の時代でした。
萩焼(はぎやき)の陶工だった権兵衛は松江藩お抱(かか)えになり、萩焼や朝(ちょう)鮮(せん)半島に由来する高麗(こうらい)茶(ちゃ)碗(わん)の写しなどとともに、独(どく)自(じ)の楽山焼に挑(ちょう)戦(せん)しました。
権兵衛の作品には刻印(こくいん)やサインがなく、作者を見(み)極(きわ)めることは困難(こんなん)。主に作風から判断(はんだん)するしかなく、重(じゅう)厚(こう)で、ずんぐりしたものが多かったようです。
権兵衛作としては「高麗(こうらい)写(うつし)茶(ちゃ)碗(わん)」「伊(い)羅(ら)保(ぼ)内(うち)刷(は)毛(け)茶碗」が知られています。しかし、藩主が江戸に行く際(さい)に手(て)土産(みやげ)としたことなどから、現存(げんぞん)している作品は少ないといわれています。
古い茶碗の箱(はこ)書(が)きによると「権兵衛焼」「御(お)立(たて)山(やま) 権兵衛焼」「古楽山」などとあり、窯の総(そう)称(しょう)としてとらえられていたようです。当時の作品が、古楽山と言われることもあります。
権兵衛は60歳(さい)くらいで病死しますが、子どもが小さくて後を継(つ)げず弟(で)子(し)が窯を継(けい)承(しょう)しました。その家(か)系(けい)が3代続いた後、楽山焼は中(ちゅう)断(だん)します。その後、1801(享(きょう)和(わ)元)年に長(なが)岡(おか)住(すみ)右衛(え)門(もん)貞(さだ)政(まさ)が第7代松江藩主、松平治(はる)郷(さと)(号・不(ふ)昧(まい))から楽山窯の再(さい)興(こう)を託(たく)され、第5代の窯元として継承しました。
不昧は江戸時代を代表する茶人でもあったため、この時代は茶道が栄え、貞政は「楽山焼中(ちゅう)興(こう)の祖」と呼(よ)ばれ、楽山窯の名声が再(ふたた)びよみがえりました。
以後、楽山窯の窯元は代々、長岡住右衛門を名乗り、空斎(くうさい)、空(くう)入(にゅう)、空(くう)味(み)、空(くう)権(ごん)らを経(へ)て、現在の空(くう)郷(きょう)氏が第12代の窯元を務(つと)めています。 (重(しげ)原(はら)伸(しん)一(いち))
<倉崎権兵衛の歩み>
1677年 萩から松江に入国し、松江藩の御用窯を興(おこ)す。のちの出雲焼楽山窯の開祖となる
1694年 権兵衛が亡(な)くなる
1801年 長岡住右衛門貞政が楽山窯窯元となり、以後代々世襲に