後鳥羽天皇像(複製)=島根県海士町海士の隠岐神社所蔵
後鳥羽天皇像(複製)=島根県海士町海士の隠岐神社所蔵
後鳥羽上皇の来島800年を記念した島民劇で、海士町に配流された後鳥羽上皇の思いや島民との関わりを熱演する出演者=2022年3月、島根県海士町海士の隠岐神社
後鳥羽上皇の来島800年を記念した島民劇で、海士町に配流された後鳥羽上皇の思いや島民との関わりを熱演する出演者=2022年3月、島根県海士町海士の隠岐神社
後鳥羽上皇の歩み
後鳥羽上皇の歩み
後鳥羽天皇像(複製)=島根県海士町海士の隠岐神社所蔵 後鳥羽上皇の来島800年を記念した島民劇で、海士町に配流された後鳥羽上皇の思いや島民との関わりを熱演する出演者=2022年3月、島根県海士町海士の隠岐神社 後鳥羽上皇の歩み

島見守った18年間、遺徳今に

 天皇(てんのう)や上皇(じょうこう)として日本の政治(せいじ)に携(たずさ)わった人が鎌倉(かまくら)時代の初めごろ、隠岐諸島(おきしょとう)の中ノ島(島根県海士(あま)町)にいました。後鳥羽(ごとば)上皇(1180~1239年)です。昨年が上皇来島800年の節目の年で、今年にかけてゆかりの海士町で顕彰(けんしょう)や記念の事業が繰(く)り広げられ、上皇の遺徳(いとく)をしのんでいます。

 上皇は、高倉(たかくら)天皇の第4皇子(おうじ)として誕生(たんじょう)。わずか3歳(さい)で第82代天皇になりましたが、政治は祖父(そふ)の後白河法皇(ごしらかわほうおう)が中心になって治めていました。結婚(けっこん)して18歳のとき、第一皇子の土御門(つちみかど)天皇に位を譲(ゆず)り、上皇になりました。天皇在位(ざいい)は1183(寿永(じゅえい)2)年から1198(建久(けんきゅう)9)年までの15年間でした。

 上皇は和歌をつくる才能(さいのう)に優(すぐ)れ、編纂(へんさん)を命じた「新古今(しんこきん)和歌集」を1205(元久(げんきゅう)2)年に完成させます。蹴鞠(けまり)、琵琶(びわ)の達人で、相撲(すもう)、弓術(きゅうじゅつ)などの武芸(ぶげい)も好む文武両道(ぶんぶりょうどう)の人でした。

 この時代は、武士(ぶし)が中心になって政治を治めようと、源氏(げんじ)と平家(へいけ)が覇権(はけん)争いを繰(く)り広げていました。平家を倒(たお)した源頼朝(みなもとのよりとも)は1192(建久3)年、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になり、武家政権(せいけん)の鎌倉幕府(ばくふ)を開きました。

 貴族(きぞく)文化に親しんでいた3代将軍の源実朝(さねとも)が暗殺(あんさつ)されると、朝廷(ちょうてい)側と幕府との関係が悪化します。京都にいた上皇は、政治を朝廷側に取り戻(もど)したいと思い1221(承久(じょうきゅう)3)年、執権(しっけん)として実権を握(にぎ)っていた北条義時(ほうじょうよしとき)を中心にした幕府を倒す命令を出しました。

 しかし、幕府軍は京都に攻(せ)め入り、上皇の軍は敗れてしまいます。「承久の乱(らん)」です。上皇は海士町へ流されることになり、配流(はいる)されてしまいます。

 18年間にわたって海士町に住み、在島(ざいとう)中に「我(われ)こそは 新島守(にいじまもり)よ 隠岐の海の 荒(あら)き波風 心して吹(ふ)け」(私(わたし)が新しく来た島の守り人です…などの意味)など、多くの歌を詠(よ)みました。そして、隠岐本と呼(よ)ばれる新しい「新古今和歌集」をつくります。

 しかし、京都に帰る夢(ゆめ)を果たせないまま、58歳で亡(な)くなりました。

 海士町内の関係史跡(しせき)は、祭神として祭っている隠岐神社、境内(けいだい)に住まいをしていた旧源福寺跡(きゅうげんぷくじあと)や、遺灰(いはい)が埋葬(まいそう)されている御火葬塚(ごかそうづか)、資料(しりょう)館などがあります。

 海士町は、官民でつくる後鳥羽院(ごとばいん)顕彰事業実行委員会を設置(せっち)。今年3月には、島民との交流を描(えが)いた劇(げき)を隠岐神社で上演(じょうえん)。また上皇が舟(ふね)で海士町に来島した様子を再現(さいげん)する渡御(とぎょ)イベントなどを企画(きかく)。

 さらに隠岐神社の記念大祭、献茶(けんちゃ)式、日本刀の奉納(ほうのう)、牛突(うしつ)き大会など、上皇ゆかりの歴史(れきし)や文化遺産(いさん)の継承(けいしょう)、啓発(けいはつ)に取り組んでいます。