「あなたが うまれたとき わたしは おかあさんに なりました。」
一つ一つの絵と言葉に、親としての自分を重ねながら読むことでしょう。わが子が生まれ、成長していく時間の中で、喜びや愛(いと)おしさ、そしてさまざまな思いが巡るはずです。
「あなたが おとなに なったとき きっと おもいだすでしょう。たいせつな あなたとの じかんを。いつまでも いつまでも。」
この春、私の長男が大学を卒業します。この絵本を読むと、母親の視点で描かれたシーンを直接経験していなくても、父親としての懐かしい記憶が次々とよみがえります。同時に、この子にとって良い親でいられただろうか、小さい頃にもっとできることはなかっただろうかと、自問せずにはいられません。
「うまれてきてくれて ほんとうに ありがとう。あなたの おかあさんに なれて しあわせです。」
「おかあさん」を「おとうさん」や里親、施設の職員など、子どもを育む立場にある人々に置き換えて読むこともできるでしょう。
ここで少し、障害のある子どもを育てる保護者の視点に目を向けてみます。
「障害受容」という言葉が、支援の現場で安易に使われることに、私は懸念を抱いています。特別支援教育や障害福祉の分野では、米国の学者・ドローターが示した「障害受容の5段階モデル」がよく取り上げられます。このモデルでは、障害児を持つ親はまずショックを受け、次に否認し、悲しみや怒りを経験しながら、やがて適応し、最後には再起を果たすとされています。
しかし、このモデルがもともとは「先天奇形のある子どもの誕生」に対する親の反応を示したものだと知る人は少ないかもしれません。そのため、発達障害のように、3歳以降や学齢期になって診断が確定するケースにも当てはめようとすることには注意が必要です。まるで「いずれ親は受容し、乗り越えるもの」と決めつけるような枠組みを押しつけ、苦しい思いをさせるかもしれないからです。そもそも、子どもの状態も親の受け止めの様相も、誰一人同じということはないのです。
私は、発達障害のある子どもとその家族の相談を受ける立場にあります。相談に訪れる親御さんは乳幼児の保護者から子どもが40、50代になって「親なき後」を心配する高齢の親まで、さまざまです。どの世代にあっても、悩みは尽きることがありません。
だからこそ、「このお母さん、早く受容して、診断を受け、療育につなげた方がいいのに」といった支援者の発言を耳にすると、私はどうしても伝えずにはいられません。「受容に、ゴールはないのですよ」と。
(おわり)