徳川家康像の上半身=東京都墨田区(資料)
徳川家康像の上半身=東京都墨田区(資料)

 偉人の氏名は末尾に「公」と付けがちだ。例えば大名茶人として知られる松江藩主の松平不昧(ふまい)公。そうなると菅原道真や織田信長らにも必要となり、数は膨大に。区別も曖昧で新聞表記では不要だ。

 心情的に付けたい偉人がいる。徳川家康である。265年に及ぶ太平の世の礎を築いた。4月に発行された『論語と将軍』(堀口茉純著)で、出版事業にもとりわけ熱心だったと知った。広い意味で新聞にも功績がある。

 天下分け目の関ケ原の合戦前に刊行した『貞観政要(じょうがんせいよう)』が心境を表し、興味深い。中国史上最高の名君という唐の太宗と重臣のやりとりを記録し、今も帝王学必読の書だ。「創業とその後の維持はどちらが難しいか」などと問答。合戦後を見据え、平和の世を実現させるという家康の意志が伝わる。

 金沢の前田家を描いた本紙連載中の小説『みやびの楯(たて)』でも、戦の前に配下に引き入れた軍勢が後で無用になり難儀する。戦時と平時の違いは極端。家康は死ぬ直前まで、武でなく徳で世を治めるという儒学の書物を刊行し続けた。

 時代が下って読書は庶民に広まり、幕末に訪れた外国人は日本人の識字率の高さに驚いたと伝わる。物が読めれば善悪抜きに多数が意思を共有できる。まとまって抵抗もできる。帝国主義の列強であっても、植民地化するには手ごわい相手に映ったはずだ。家康の威光が生きたのか。公を付けたい“推しの人”である。(板)