この春卒業した小学生の卒業アルバムを見る機会があり、少し驚いた。島根県内の学校。歓声が聞こえてきそうな運動会や修学旅行の写真のページに続く文集の作文が、手書きではなく印刷文字だったからだ。
きれいな字、よれよれした字…。「卒アル」は筆跡も含め、自分や学友との思い出を振り返る一冊。印刷文字では味気ないと感じるのは郷愁の押し付けか。
学校現場では情報通信技術(ICT)教育が奨励され、1人1台配備されたタブレット端末を授業でも駆使する。思い出を残す形も変化しているのだ。全国でも教員の負担軽減や個人情報保護のため文集部分の廃止や、専用アプリで見るデジタル化した卒アルを導入する学校が増えている。
この流れに漠然とした不安を覚えるのはなぜか。同じ感覚の人がいるようで、本年度から冊子の島根県職員録と教職員名簿が廃止されたのを惜しむ職員OBからこんなメールが届いた。「合理的でも文字が、形が、身近なところから消えていって、行く先が不安」。
それを読み、批評家の若松英輔さんがX(旧ツイッター)に投稿した言葉を思い出した。「私たちは便利な暮らしをしているために記憶という魂の富の保持さえも機械に託してしまった。人生への愛惜の情が薄れるのも当然かもしれない」。不安の正体は、人工知能(AI)をはじめ急速に進むデジタル化の流れにあらがう本能の叫びなのだと思う。(衣)