戦時中の一人の女性の姿を描いた漫画「この世界の片隅に」の原画展が安来市加納美術館で11日から開かれる。開幕を前に、原作者のこうの史代さんに寄稿してもらった。
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賢治は、妹の病をきっかけに東京から故郷の花巻に帰ってきました。大きな革トランクをたったひとつ提げていました。開けると、中には小説や詩の原稿がいっぱいに詰まっていました。「子どもをつくる代わりに書いたんだ」。20代半ばの賢治は、笑って家族に言いました。
わたしが小学校時代に出逢(であ)った宮沢賢治の伝記には、こんな場面がありました。
その数年後、わたしは漫画とめぐり逢い、描くことにすっかり夢中になりました。あの日知った宮沢賢治の考え方を芯にして、漫画人生を重ねて40年たちました。
今つくづく思うに、確かに作品とはわが子のようなものなのでした。
漫画作品にとっては、実際の性別にかかわらず作家は母です。何もないところから創造するのではなく、主題が形をとりたがっているのを手伝う気持ちで描き始めます。その主題やきっかけを与えてくれる編集者さんは父のような存在ですが、いなくてもできる作品もあるので、ヒトというよりはアリやハチに近い形態かもしれません。
雑誌に載せるのは、学校に行かせるようなものです。発行部数の多い雑誌のほうがヒットにつながりやすいですが、作品によい影響があるかどうかは別です。人生において無理に学校に行かなくてもいいように、無理に雑誌に載せる必要もないのですが、わが子はわたし独りでは思いつかない出会いを雑誌でいくつも経験します。そのなかから善い友達を選びます。友達とは、同じ雑誌の作品であり、読者さんです。
単行本が出るのは就職させるようなもの。わが子は読者さんにあまたの本の中から選んでもらい、読者さんの本棚に収まって、折々に寄り添ってゆくのでしょう。独り立ちさせて、わたしもようやくひと安心です。
映画やテレビドラマになるのは、その子が結婚して、孫ができるようなものでした。もちろん思い入れはありますが、それよりも目の前の、入学も就職もできていない別のわが子らのことで頭はいっぱいです。
宮沢賢治は、生きている間にはほとんど作品は売れませんでした。
だからわたしも、生きている間に作品が売れるとは考えていませんでした。なのにいざ雑誌に載り単行本が出るとなると、この通りあれこれえり好みしては思い悩むのだから不思議です。
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「こうの史代『この世界の片隅に』原画展」は11日から12月23日まで安来市広瀬町布部の市加納美術館で開催。単行本に合わせ、上巻(開幕~10月18日)、中巻(10月22日~11月23日)、下巻(11月27日~閉幕)の3期に分けて原画を展示する。
こうの・ふみよ 1968年広島県生まれ。95年『街角花だより』でデビュー。2004年に『夕凪の街 桜の国』で文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞と手塚治虫文化省新生賞を受賞。『この世界の片隅に』は07~09年に「漫画アクション」(双葉社)に連載され、メディア芸術祭マンガ部門優秀賞などを受賞。比治山大短期大学部美術科マンガ・キャラクターコース客員教授。