「料理をしないことこそ料理の理想である」。逆説的で、何やら禅問答のような言い方だが、これが日本料理の料理観なのだという。今年の文化功労者に選ばれた食文化研究の第一人者で、世界の隅々まで食べ歩いた石毛直道さん(元国立民族学博物館長)の見立てだ▼石毛さんが代表例に挙げるのが刺し身。新鮮な魚に「切る」という最小限の技術を加えて醤油(しょうゆ)とわさびで味わう、なるべく自然に近い状態で食べる文化だ。刺し身は昔から日本料理の王座とされ、会席などでは欠かせない。このため料理長が自ら手掛けていたようだ▼その分、こだわりも強い。刺し身を「引く」という言い方があるのもその一つ。切る際の包丁さばきから生まれた表現らしい。世界では珍しい片刃の包丁が発達したのも、魚の柔らかい身が潰(つぶ)れてうま味が逃げないように切るためだという。プロに言わせると、素人が切った刺し身は断面が滑らかではなく、身が潰れていて醤油がすぐに染み込むそうだ▼「料理をしない料理」のもう一つの例が冷や奴(やっこ)。豆腐を切っただけの淡泊な味を刺し身と同じようにして味わう。寒くなると湯で温めて食べる。「畑の肉」と呼ばれる大豆で作った豆腐は、肉食を避けていた明治維新までは魚以上に身近なタンパク源だった▼ここまで書き進めてきたら、もう今夜は刺し身と湯豆腐で一杯の気分。魚はアジにするか、ブリがいいか。(己)