早朝の臨時ニュースに続いて、午後に戦況が伝えられると、国民の多くが狂喜したという。当時、大学生だった作家の故阿川弘之さんは、下宿でラジオを聞いて「涙がポロポロ出て来て困った」と振り返っている。この日、開会中だった島根県議会も議長の発声で万歳の後、「県民の覚悟の決議」を満場一致で採択したそうだ▼1941年12月8日、日米開戦の口火となる真珠湾攻撃当日の出来事だ。日中戦争のこう着状態が続く中、経済制裁の影響も重なり、国民の反米感情は高まっていた。2日後には当時の松江市公会堂で、日露戦争開始以来となる「必勝祈願県民大会」が開かれた▼緒戦勝利の感激は当時の作家たちも同じ。阿川さんによると、志賀直哉、武者小路実篤、谷崎潤一郎、吉川英治、高村光太郎らも、その感激を文章や詩歌にしたという。街中には「屠(ほふ)れ米英我等の敵だ 進め一億火の玉だ」の言葉があふれた▼一方で、庶民の暮らしには既に大きな影響が出ていた。生活必需品の配給制に加え、金属製品の供出が始まり、バスの燃料も木炭や薪(まき)に。「産めよ殖やせよ」の国策に沿い島根県が、男子25歳、女子19歳の「結婚適齢者登録」を始めた、との記事も残る▼日米開戦から80年。スローガンで敵視された「米英」も「贅沢(ぜいたく)(は敵だ)」も、今では敵ではなくなった。時代の流れとはいえ、変わり身の早さに複雑な思いがする。(己)