「夏は天地の精気が交わりすべての花が実を結ぶ。この季節はぐっすり眠って朝は早起きし、太陽の日差しを嫌わずに積極的に外に出て暑さを楽しむ」。平安時代の医学書「医心方」にある夏の養生の心得。4年前にも小欄で触れたが、再掲をお許しいただきたい。「怒らず美しい花が実となるように志を充実させ、大きな木のように思いやりの深い愛の枝を繁らせて、人をその木陰に憩わせるような姿勢で生きよ」▼気が満ちる文章を暑さに思い出し座右に置く。医心方は中国の文献を症例別に編集した全30巻。長く秘本だったが、古典医学研究家の槇佐知子さんの現代語訳で全容を知ることができる▼半世紀前、40歳を過ぎて独学で現代語訳に取り組んだ槇さんの人生は波(は)瀾(らん)万丈だ。「医心方」に出会った頃、実妹が失踪。背景に夫の乱暴があったと知る。開き直る夫に絶望して、向かった富士の樹海が尽きた時、踏みしめた山肌から「富士のいたみが足裏から電流のように全身を貫いた」とエッセー『フジザクラの花』に記す▼周りの山はスクラムを組んで連なる中、溶岩が冷え固まって山となって以来、独りで存在し続ける富士の圧倒的な孤独の痛みに、自分の悩みが小さく見えたという▼その後、槇さんは壮絶な体験を原動力に、偉業を成し遂げた。怒りや絶望のエネルギーをあらぬ方に向けたむごい事件を目の当たりにし、その強さを思う。(衣)