突拍子もない発想に思えるが、当時はそれだけ欧米に追い付くことに懸命だったのだろう。明治初めに論議になった「英語の国語化論」や、外国人との結婚による「人種改良論」だ▼英語の国語化を唱えたのは後に初代文部大臣になる森有礼(ありのり)。人種改良の方は福沢諭吉が創刊した新聞「時事新報」の入社3年目の論説記者・高橋義雄で、ともにまだ20代だった頃の話だ。もちろん実現はしなかったが、その発想の大胆さには驚く▼森の方は、日本が植民地になるのを防ぐには、国際共通語を使うことで学術レベルを世界標準にするしかないとの思いがあったとされる。また高橋は、欧米人と肩を並べるため、まず劣っている身長など体格を改良する狙いだった。1884年に出版した『日本人種改良論』の序文は福沢が書いている▼お気付きの人もいると思うが、高橋はその後、実業界を経て「箒(そう)庵(あん)」の号を名乗る茶人・茶道研究家になった。大名茶人・松平不昧(ふまい)(松江松平藩7代藩主・治郷(はるさと))の功績を広めるのにも一役買い、不昧が集めた茶道具を見るために松江も訪れている▼さて翻って今の日本人はどうか。良く言えばそこそこの生活になり賢く現実的になったのだろうが、半面、枠に収まった考え方ではいつまでたっても地方が中央と肩を並べるようにはならない。山陰に新幹線を走らせるためにも、明治の頃に負けない大胆な発想が欲しい。(己)