「ばかがいなけりゃ、利口がたたねぇ」。書家で詩人の相田みつをさんが紹介していた山本周五郎の小説『さぶ』に出てくる台詞(せりふ)だ。相田さんは<世の中利口だけじゃダメなんですよ。負ける人がいるから勝つ人がいる>と「負けることの尊さ」を説いた▼言われてみれば当たり前なのだが、勝つことばかり意識していると、つい忘れてしまう。世の中も物語の世界も、ヒーローだけでは成り立たない。悪役もいれば、不器用で朴訥(ぼくとつ)で、時には情けなく映る「いい人」がいるから引き立つ人がいる▼そんな役回りを映画やテレビで演じ、惜しむ声が相次いだ俳優・田中邦衛さんの訃報から1カ月余り。独特の存在感と口調は、今も心に残る。昭和の日本人の一面を見るような懐かしさがあった。作家の関川夏央さんが「適度な貧しさと向上心がバランスした時代」と評した昭和の空気をまとっていたのだろう▼相田さんの詩『ただいるだけで』の中に<あなたがそこに/ただいるだけで/みんなのこころが/やすらぐ/そんなあなたに/わたしもなりたい>という一節がある。田中さんもそんな存在だったのかもしれない▼この世の中、みんなが勝ち組にはなれない。負けて途方に暮れる<そういう経験が人間の「いのちの根っこ」を育てていく>と諭した相田さん。勝ち負けにこだわるよりも、田中さんのような「いい人」を目指す生き方もいい。(己)