阪神・淡路大震災の追悼行事に向け、「絆」や「祈」などの文字が書き入れられた竹灯籠=6日、神戸市北区の「あいな里山公園」
阪神・淡路大震災の追悼行事に向け、「絆」や「祈」などの文字が書き入れられた竹灯籠=6日、神戸市北区の「あいな里山公園」

 京都の大学への入学を控えた1995年春、両親から指輪を差し出された。初めて離れて暮らす娘を自分たちに代わり守ってくれるようにとの願いが込められたリングには、もう一つ意味があった。何かあっても指を見れば娘だと判別できる、と。

 その年の1月17日に発生した阪神・淡路大震災は15秒間の強い揺れで、関連死も含め6434人が犠牲になった。両親の心配は今なら分かるが、新生活に浮かれ過ぎたのか特に備えもせず、確かにあった震災の爪痕にも目をくれず、被災地の近くに暮らしながら、あまりにも無関心な学生生活を送ってしまった。

 一方で多くの市民は被災地に思いを寄せ、炊き出しや避難者の外出支援、清掃などを買って出た。こうした災害ボランティアが定着した95年は「ボランティア元年」と呼ばれ、その後も日本列島を襲った災害の被災地で、善意が復興を支えることにつながった。

 ただ、現地に出向かずともできることはある。有事には命が助かることが何よりで、備えと意識が左右する。防災・減災への用意は、未来への支援の一つだ。

 29年前にお守り代わりの指輪をくれた両親は高齢となり、こちらが守る立場となった。これも減災の備えとして、元日の能登半島地震から、閉じ込め防止のため自宅トイレの鍵をかけるのをやめた。「使用中」の札などをかければ支障はない。支援も備えも、できることから始めたい。(衣)