立春が過ぎて『早春賦』を口ずさむ人も多いかもしれない。<春は名のみの風の寒さや>。春とは名ばかりで風が冷たいとの意味だが、今週は暖かい日が続いて落ち着かなかった▼それはさておき、子どもの頃は「名のみ」を「なの実」と思い込み、どんな実なのだろう、と想像を膨らませた。<あした浜辺をさまよえば>で始まる『浜辺の歌』も、なぜだか勝手に春の歌だと思っていた。今はインターネットで検索すれば、すぐに歌詞や解釈が知れ、スッキリはする。ただ、誤解でも想像の世界に浸ることは一興ではある▼もう一つ想像を膨らませたのが、祖母が折に触れ「本当にきれいだった」と口にした大正時代の風景だ。そんな思い出があったからか。松江市の島根県立美術館で開催中の「THE新版画 版元・渡邊庄三郎の挑戦」にしみじみと見入った▼新版画は、明治以降に西洋の写真や絵画の影響で衰退した江戸期の浮世絵木版画を、あえて伝統的な絵師、彫師、摺(すり)師の分業で取り組んだ新様式の版画。版元の版画店店主、渡邊庄三郎(1885~1962年)によって確立された▼一つ一つの作品からは3人の「師」の気迫の重なりを感じる。特に絵師・川瀬巴水の大正から昭和初期に描かれた日本各地の風景画は、祖母が見た景色に触れられたようで胸に染みた。現実世界では昔ながらの風景は消えゆくが、どんな形であれ、後世に伝えたい。(衣)