太平洋戦争の戦況悪化が大好きな水泳を続けることを許さなかった。今市高等女学校(現・出雲高校)の入学翌年に部活動は中止され、学校は軍需工場になった。悔しくなかった。「戦争に勝たにゃいけん」。毎日ミシンで軍服を縫った。

今市高等女学校時代の木村悦子さん(右)  

戦災孤児、何もしてあげられない

 1945年春に卒業し家族が暮らす能美島(現・広島県江田島市)へ移った。広島市から約20キロ南にある瀬戸内海の島だ。そこで悲しい夏を迎える。

 79年前の8月6日朝。その光景は生涯忘れない。自宅にいるとすさまじい閃光(せんこう)が走った。空襲だと思い、はだしで飛び出し防空壕(ごう)に駆け込む途中、爆風に襲われ地面に伏せた。それから恐る恐る起きて、空を見上げた。大きなきのこ雲が二重にも三重にも上がっていた。広島市の方角だった。

 「広島のガスタンクが爆発したのでは」とうわさしたが、その日の夜、原爆投下を知らされた。

 広島市内の広島第一高等女学校に勤務する姉は、たまたま休日で能美島に戻っており、難を逃れた。同校は原爆で教員、生徒含め約600人が死亡したという。

 8月15日の玉音放送を聴いても日本の敗戦が信じられなかった。だが、姉を手伝うため9月に広島市に入ると、広島駅からは林立する建物に遮られ、見えなかったはずの瀬戸内海が見えた。現実を知った。

 焼け野原になった市内の道端に遺体があり、人々が焼いていた。姉とともに焼け残った校舎へ詰め、生徒の遺品や遺骨を学校内に安置し、家族が引き取りに来るのを待った。1か月ばかりいたが、引き取り手は1人も現れなかった。...