終戦直前に出雲市大社町の北山に墜落した日本海軍攻撃機の慰霊碑に手を合わせる参加者。この後「海ゆかば」を合唱した=6月7日、出雲市内
終戦直前に出雲市大社町の北山に墜落した日本海軍攻撃機の慰霊碑に手を合わせる参加者。この後「海ゆかば」を合唱した=6月7日、出雲市内

 「また会う日まで」とでも意訳しようか。ジャズ好きに知られる米国の『アイル・ビー・シーイング・ユー』は戦争で名曲となった。1938年公開の成功しなかったミュージカルの挿入歌で、すぐに消えてもおかしくなかった。

 ところが、第2次世界大戦が始まると、米国民の心情に寄り添いヒット。ビリー・ホリデー、フランク・シナトラら偉大な歌手が歌い継いだ。<朝日の中にあなたを見つけ、見上げる月にあなたを思う>。心に染み込む歌詞としっとりとした曲調は、戦争で大切な人を失った人たちを慰めた。

 日本ならば『海ゆかば』か。今の時季、各地の戦没者慰霊祭でよく歌われる。<海ゆかば水漬(みづ)く屍(かばね)>で始まる37年作曲の軍歌。<大君(おほきみ)の辺(へ)にこそ死なめ かへりみはせじ>とある。戦死の賛美か、とどきっとするが、歌詞は万葉歌人・大伴家持の長歌から取り、旋律は厳かで美しい。多くの軍歌が戦後に排除される中、賛否はあっても埋もれぬ鎮魂歌になった。

 戦時中、軍部は国威発揚のため大量の軍歌を作った。だが露骨に軍事的な歌は国民が嫌がったという。国への反発というよりは、いつの世も不変の音楽や芸術の役割、存在意義を見る思いがする。

 「また会う日まで」に心を癒やした米国人も、海ゆかばで<かへりみはせじ>と歌い涙を拭った日本人も、心根はさほど違わない。銃を手に憎み合う必要があったのか分からなくなる。(板)