小学校から高校まで運動部に所属した。「水は飲むな」と言われてきた世代だけに、灼熱(しゃくねつ)のこの時季、最も幸せを感じたのは、部活の後に冷たい水が喉を通るその瞬間だった。生きていることに感謝した。それは今も変わらない。
当時の「水が飲めない」という状況は、先生と児童生徒との関係の中でつくり出された特殊な状況だが、今年の猛暑と少雨は冗談ではなく、このままでは飲み水にも影響が出るのではないかと懸念されるレベルだ。先生の目を盗んで水は飲めるが、自然に抗(あらが)うすべはない。先行きが心配だ。
こういう不確定要素が多い気象状況だからこそ、日本中にくまなく敷設された水道管のありがたさを思う。地球上に存在する水のうち、大半は海水で、川や湖に存在している割合はわずか0・01%に過ぎないという。極めて限られた水資源を効率的に人間社会へ供給するシステムとして水道がある。
一方、蛇口をひねれば水が出るのが当たり前であるが故に、日頃、そのありがたみを感じにくくなっているのも、また事実だ。異常渇水や災害による断水に見舞われ、初めて大切さを思い知らされるのが常となっている。
物事の基本をしっかりと認識する、ひいては、他人から受けた恩を忘れないという意味の故事成句に「飲水思源(水を飲み、源に思いをはせる)」がある。酷暑はまだ続きそうだ。この言葉をかみしめながら節水に努めたい。(万)