小藤文次郎の肖像写真=島根県津和野町森村、津和野町郷土館所蔵
小藤文次郎の肖像写真=島根県津和野町森村、津和野町郷土館所蔵
日本地質学の父・小藤文次郎の生誕地跡=島根県津和野町後田
日本地質学の父・小藤文次郎の生誕地跡=島根県津和野町後田
小藤 文次郎の歩み
小藤 文次郎の歩み
小藤文次郎の肖像写真=島根県津和野町森村、津和野町郷土館所蔵
日本地質学の父・小藤文次郎の生誕地跡=島根県津和野町後田
小藤 文次郎の歩み

 初めて断層地震説 唱える

 地震(じしん)が起こる仕組みや岩石について勉強を重ね、「日本地質(ちしつ)学の父」と呼(よ)ばれる小藤(ことう)文次郎(ぶんじろう)(1856~1935年)は現在(げんざい)の島根県津和野(つわの)町後田(うしろだ)の武士(ぶし)の家に生まれ、10代で上京し東京大学の前身・大学(だいがく)南校(なんこう)で学びました。1891(明治24)年に岐阜(ぎふ)県で起きた濃尾(のうび)地震の調査(ちょうさ)に当たり、当時世界で初めて「地震は活(かつ)断層(だんそう)によって引き起こされる」という断層地震説を唱(とな)え、現在では定説になっています。

 文次郎は、幼(おさな)い頃(ころ)から藩士(はんし)の子どもたちが通った学校・藩校養老館(ようろうかん)で漢学や蘭(らん)学を学び、当時から成績(せいせき)は抜群(ばつぐん)だったと伝えられています。真面目(まじめ)すぎて、家から養老館に通う道しか知らなかった、といううわさも残っているそうです。

 1870(明治3)年、14歳(さい)の時に養老館の特待生に選ばれて上京し大学南校に入学。同じく東京大学の前身である東京帝国(ていこく)大学地質学科の最初の卒業生となりました。

 地質学科の教授(きょうじゅ)は、ドイツ人の地質学者ハインリッヒ・エドムント・ナウマン博士(はくし)。今もナウマン象(ぞう)に名を残す博士は当時、地質学の世界的権威(けんい)でした。

 文次郎の真面目な人柄(ひとがら)がうかがえるエピソードがあります。ナウマン博士が苦労して東北地方の地質予測(よそく)図を作った際(さい)、小藤に「この図はどうだね」と尋(たず)ねると「ベリービューティフル(とても美しい)」との一言だけでした。もっと何か言えそうなものだが、とナウマンは不愉快(ふゆかい)な顔になったといいます。

 大学卒業後の80(明治13)年には文部省(現文部科学省)の留学生(りゅうがくせい)としてドイツに向かい、帰国後の84(同17)年から東京帝国大学理学部に勤務(きんむ)。86(同19)年には地質学の教授となり1921(大正10)年の退官(たいかん)まで後進の育成に努めました。

 文次郎の研究は地質学だけでなく、岩石学や地震学、火山学など広い範囲(はんい)にわたっています。知識(ちしき)が最大限(さいだいげん)に生かされたのが1891年に起こったマグニチュード8・0と推測(すいそく)される濃尾地震でした。

 文次郎は発生後直ちに現地調査に向かい、上下6メートルの断層のずれがみられる根尾谷(ねおだに)断層(岐阜(ぎふ)県本巣(もとす)市)の写真、論文(ろんぶん)を報告(ほうこく)。活断層の写真は世界各国の地理の教科書に取り上げられました。

 地元の歴史(れきし)を研究する郷土史(きょうどし)家(か)の山岡(やまおか)浩二(こうじ)さん(66)=津和野町町田(まちだ)=は「濃尾地震のとき、いち早く現地に飛んで調べたフットワークの軽さと科学的な態度(たいど)は、小中学生の皆(みな)さんにとっても見習うべき点だと思います」と話しています。